夢幻能Ifrit(イフリート) 作:白神貴士

【登場人物】
 托鉢僧
 女
 魔神
 姫君
 若者
 王女
 国王 他
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【ヒルマサン・ヤナムン】

深山(みやま)の森に 降り積もるは

月のかけらか 夜婚(よば)う蛍か

問われたなら 答えもしょう

命の意味も 恋の訳も


喜屋武(きやん)岬の 波を枕

しぶけば揺るる チュラカーギー

急かるるなら 降りぃもしょう

乙女のヌチも その涙も


群雲ぞ 天駆けて 

水面(みなも)流るる サガリバナ

などて 残月(ざんげつ) 鬼になろ


立ち待ちに 移ろうて

トゥドゥマリの浜 反魂(はんごん)の

恋の 望月(もちづき) 夜叉になろ


「まぶやー、まぶやー、うーてぃくーよ」×3


深山の森に 降り積もるは

月のかけらか 夜婚う蛍か

問われたなら 答えもしょう

命の意味も 恋の訳も

 





頭を剃り上げた片目の托鉢僧が登場する。

托鉢僧
「おお、もう日もとっぷりと暮れて道が見えぬ…
 こんな処を歩いていては足を滑らして、谷底まで転がり落ちてしまうかも知れぬ。
 さても、良い思案は無い物か…おお、あれに灯が見える、
 どなたか人がやって来られたようだ、これは助かった…」

と、何やら妖しき風情の女が現れる。
松明か提灯と見えたは火の玉で女の数歩先を照らしている…

托鉢僧、流石に色を失ったが、行き過ぎようとする女へ思い切って声を掛ける。

托鉢僧
「申し、申し…」

女、ふっと火の玉を消して振り返る。


「このような処で、このような時分に声を掛けるのは…狐か狸か、
 いずれアヤカシの眷属に相違あるまい。正体を見せい!」
托鉢僧
「いやいや、それはこっちの…」

「なんと?」
托鉢僧
「…いや、拙僧はただの旅の托鉢僧でございますが、
 道に迷い日も暮れて難渋いたしております。
 お通りになるのを目の端にいたしましたので
 このあたりのお方でしたならば、何卒、里へお連れ願おうと、
 声を掛けたと…そういう次第でございます。」

「そんなら旅の御坊様…確かに間違いは無いようですね。
 私は、この下に棲む者ですが、この辺りで近頃、
 怖ろしい事がたびたび起きておりますので、失礼な事を申しました。
 許して下さいませ。」

托鉢僧、何やら思うところがあり、

托鉢僧
「怖ろしいこと…とは、どんなお話でございましょう?」

「旅のお方では知らぬのも無理はないが…
 話して良い物かどうか…実は」
托鉢僧
「実は?」

「この辺りにはそれは怖ろしい魔神が出るので御座います。」
托鉢僧
「魔神?」

「はい。身の丈は八尺とも十尺ともいい、その肌は真っ黒に焦げて煙りを上げ
 顔も身体もみにくく縮れ、只、両の眼だけは爛々と輝く怖ろしい形相…
 その魔神が女と見れば裸に剥いて手足を千切り、首をもぎ、
 男と見れば赤裸に生きたまま皮を剥ぐ…そういう話でございます。」
托鉢僧
「それはなんと…身の毛もよだつ話ではございますが…しかし…
 先程、あなた様は確か『狐か、狸か?』と、そうおっしゃいましたね…」

「確かに、そう申しましたが、それが何か?」
托鉢僧
「何故、『お前は魔神か?』とはおっしゃらなかったので?」

女、ほほほと笑って


「それは御坊様、魔神が出てきた日にはもとより命は無い物になりますので…
 狐か狸ならば良いが…と、願望が言の葉になったまででございます。」
托鉢僧
「ははぁ、確かに!」

二人、ひとしきり笑って

托鉢僧
「ところで、その魔神とやらが、何故そんな事をするようになったのか…
 何か御存知では無いですか?」

間があって


「…アヤカシの為すこと、人智の及ぶ処ではございませぬ」
托鉢僧
「それも道理…したが、お聴かせ下さった魔神の仕業、
 拙僧にはどうも、只の戯れ(たわぶれ)には思えませぬ…」

「聴かぬ方がようございますよ…」
托鉢僧
「やはり、何か御存知で…」

「よそのお方に漏らしたと知れれば、私も村に居られませぬ故…」
托鉢僧
「はい」

「里へ戻りながらは話せませぬ。
 この怖ろしい場所で、長い話をお聞きになっておられるうちに
 当の魔神が出てこぬとも限りませぬ。」
托鉢僧
「長うございますか?」

「それは相当…それでも、どうでもと」
托鉢僧
「はい。どうでもお聴かせ下さいませ。」

「命懸けの夜になりますぞ」
托鉢僧
「何に掛けても、その話、どうでも聴かねばならぬ訳が…ございます」

「その訳とは…?」
托鉢僧
「それは、伺った後に。」

女、妖しい気を放つ…托鉢僧気付かぬ様子を見せ、


「お命覚悟で聴くと言われるなら、お話いたしましょう。
 これは、体中の皮を剥かれてこときれた私の父が、死ぬ間際に話してくれたこと…
 心してお聞き下さいませ…」

女の話と共に物語は闇に浮かぶ。


「昔、名高き悪魔イブリスの本従弟、つまり母の妹の息子である
 ジルジス・ビン・ラジムスという魔神が西の海の雲の上を飛んで居たとき…
 雲間から、何やら輝く物を見つけました。

 とある島の宮殿の窓辺越し、キラキラと宝石を散りばめた婚礼の衣装を着た、
 それは魂を抜かれるほど美しい人間のお姫様が見えたのでございます…
 一目で恋に落ちた魔神、イフリートは、風を裂いて地上に舞い降りるや、
 姫を鷲掴みにして宙に舞い上がったのでございます。

 あまりのことに気を失った姫様を地面の下の隠れ家に隠すと、
 イフリートは魔法を使い、宮殿から姫様の暮らしに必要な物を全て取り寄せ、
 自分はペルシャ人に姿を変えると姫様を我が物にし、逃げる術は無いと諭したのです。
 魔神の世界にも掟があり、家族の承諾もなく攫ってきた娘は妻には出来ぬからと、
 イフリートは十日に一度やってきては一晩中姫様を可愛がり、

 翌朝には去って行くという暮らしを続けておりました。
 十日に一度の関係でしたが魔神は大層姫を愛しておりました。
 姫も最初は泣き暮らしておりましたが、次第に外の世界をあきらめた様子、
 イフリートを見る顔も少しずつ変わって参りました…そうなると魔神の方でも
 様々な国の色々な宝を姫に与えては、姫の笑顔を楽しみにするようになったのです。
 そして床の間に母の形見だという魔法の竪琴を置いて
 『何か有ったらこれを鳴らしなさい。指が弦に触れるか触れぬうちにやって来るから』
 と、言葉通り、十日過ぎずとも、姫が呼べば直ぐに現れるようになったのです。

 甘く平穏に…少々のいさかいや嫉妬、ごたごたはあったにせよ…
 25年という長い歳月が過ぎた頃でございます。

 ある日イフリートが自分のねぐらで夢を見ていると、
 突然、怖ろしく乱暴な音で竪琴が鳴るのが聞こえました。
 
 これは姫の身に何かがあったに違いないと魔神はいつもに増して
 稲妻のように空を飛び、大地を割って姫の部屋に現れました。
 あまりに急いでいたので普段は見せることもめったにない怖ろしい姿で…
 そうして、そこであの竪琴がバラバラに壊れて散らばっているのを目にしました。
 …姫は…無事でそこに居ました。魔神が与えたお気に入りの薄物を羽織り、
 上気したような何か困った様な表情を浮かべて…全身を赤くしたり蒼くしたり…

『何があったのだ!ただごとではあるまい…わしは心配で胸が破裂するかと思ったぞ』
『何も…何でもないのです、ただ、何だか寂しくて胸が締め付けられるようで…
 ちょっとだけお酒を戴きました…それからご不浄にいこうと立ち上がったら、
 酔いが回っていたのか…その、床の間に躓いて、転んでしまったのです。』
『それで…わしの…母の形見の竪琴が…この様に壊れて散らばったというのか?』
『ええ、ごめんなさい。何か代わりの物が見つかるまでは…あたし…
 あなたに会いたくても10日間我慢しますから…』
『嘘をつくな!この売女!』

 イフリートはこの25年上げた事もなかったような怖ろしい声で怒鳴りつけました。
 広間を眺め渡すと箪笥の影に樵の持つ様な鉄の斧と粗末な履き物が見つかり…

『これは何だ…お前、まさか…人間の男をここに引き入れたのか…』
『わたし…そんな物知りません。きっと…あなたが来るときに慌てすぎて、
 どこかで着物にひっつけて持って来てしまったんじゃないかしら…』

 魔神の全身の血が沸き立ち逆流しました…この女は裏切った…
 はっきりとそう感じたのです。

『ふざけるな!この淫売!薄汚い雌豚め!』

 流石に血の気が引いて真っ青になった姫君をイフリートは怒りにまかせ丸裸にして
 手足を柱に縛り付けました。けれどそれでも魔神はやはり姫を愛していたのです。

『なあ、お前。わしはお前が憎くて言ってるんじゃない…正直に白状すれば…』

 姫の姿を哀れに思い、髪を撫でてやろうと腕を伸ばしたとき、
 信じられない事が起こりました…姫が無意識にびくっと顔を背けたのです。
 思わず、その身体を掴もうとした時、爪の先が滑り姫の愛くるしい乳房を傷つけて
 一筋の血が流れました。姫の顔…その表情は魔神の心を引き裂き、
 全身の血が鉛に変わるような物でした…まるで化け物を見るような眼…
 
 裏切っただけではない、この女はもうわしを愛していない…いや、
 そもそも愛してなどいるはずも無かったのだ…
 婚礼の日に宮殿から攫い、陽の目も見せずに地面の下に閉じこめてきた化け物を…

 地面に崩れ落ちそうな哀しみはすぐに激しい怒りの炎となって噴き上げました。
 許さん!こいつらはわしを騙したのだ!
 悪魔イブリスの眷属、誇り高きイフリート、ジルジス様を虚仮にしたのだ!
 何もかもを白状させ、泣いて罪の赦しを乞わせよう。
 地面にひれ伏して命乞いをし、つまらぬ浮気心で犯した罪を後悔するように…
 
『よく判った…俺も名高きイブリスの一族だ。
 お前が白状しないのなら、自分でこいつの持ち主を見つけだしてやる!』

 魔神はペルシャ人の姿に化けると、寺の鐘突男の振りをして、
 斧と履き物を持ち『これを拾ったのだが』と樵達に持ち主を尋ねて廻りました。
 住処はすぐに判り、ぶるぶる震えているいくじなしの若者の首根っこを掴んで、
 地下の隠れ家にとって返すと、縛られた女の前に引きすえました。
 丸裸で縛られ、血を流している女を見て若者は涙を流しました。
 イフリートは縄を解き、女の身体を衣でくるむと尋ねました。

『良く見ろ…こいつがお前の恋人だろう…』
『知りません、こんな人、見たこともありません!』 
『これ以上酷い目に遭いたいのか…白状しろ!』
『生まれてから一度も逢ったことの無い男です…アラーの前で嘘はつきません。』
『…そうか…本当に知らないのだな。ならばこの刀で、男の首を刎ねてみろ。』

女が刀を持って男の傍に立つと、若者の目から涙がこぼれて頬を伝いました。
その時、女の目が若者に語り、若者の目が女に語る言葉が…
魔神の耳にはっきりと聞こえて来たのでございます…

『あなたのせいよ…こんなことになったのは…』
『どうぞ許して下さい』

イフリートの目には愛し合う二人の姿が見えました…魔神が留守にする9日間、
一緒に風呂に入り、床で戯れ、酒を呑んで笑い合う二人の姿、
酔っぱらって気が大きくなり『魔神だと…呼び出して退治してやる!』と
竪琴を蹴飛ばす若者の姿…

その時、女が刀を投げ捨てました。

『何の怨みもない見知らぬ方の首を…打ち落とす事など私には出来ません…
 あなたが許しても、そんなことはアラーがお許しに成りません!』
『…お前は…この男と一夜を過ごして、こいつに情が移ったんだな。
 この色男を殺すのに忍びないと思っているのだな…よくわかった!』

魔神は今度は男に顔を向けました。

『お前も…こんな女は見たことがない…そうだな?』
『はい。どのようなお方なのでしょう…
 私には、これまで一度もお目にかかった記憶がございません。』
『刀を取れ…この女の首を落としたら、お前を信じて無事に帰してやろう』
『は、はい…』

再び、女と若者は立場を変えて視線を交わし、
イフリートの耳にはこんな言葉が聞こえてきました。

『私は裏切らなかったのに…あなたは恋を裏切るのね…』
『そんなことは出来ません…わたしも命を捨てましょう』

若者は目から涙を溢れさせ、刀を投げ出して魔神にひれ伏しました。

『偉大なイフリート、誇り高き英雄よ…どうかお聞き下さい。
 信仰薄い賢くもない女が、私の首を落とす事を許されないと申しました!
 それなのにどうして男の私がこの見知らぬ女の首をはねられるものでしょう…
 たとえあなたのお怒りに触れるとしても私にはどうしても…出来ません!』

魔神は自分でも驚くほど落ち着いた声で言いました。

『よくわかったぞ…お前達がどれほど愛し合ったかを…』

イフリートは刀を拾い上げて振り下げるだけで女の両腕を切り落としました。

『その指でどんな罪を犯した…』

巨大な手が女の胴を鷲掴みにすると刀が横薙ぎに振られ、女の両足が落ちました。

『その足をどんな風に絡ませた…』 

それでも女は悲鳴ひとつあげず…その目で若者に別れを告げるのが見えました。

『お前はその目で…』

女の首が壁際へ転がってゆくのを若者は見ることが出来ず、目を閉じていました。

『そこの男…お前は、この女と違い、こんなことになるとは知らなかったのだろう』

若者は何度も激しく頷きました。

『可哀想にな…お前の願いをひとつだけ叶えてやろう…』

イフリートがこう言うと、若者の顔にさっと血の気が戻りました。

『…ど、どんな願いを叶えてくださるんですか?』
『そうだな…犬と驢馬と猿、お前の姿をこの中のどれに変えて欲しいか選ばせてやろう』

男の目に絶望の色が浮かび、立派なイフリートがこのくらいのことでだとか
アラーがどうだとか、こういう昔話があるだとか、必死で哀れみを乞いましたが、
魔神は若者を掴んで空高く飛び上がり、高い山の頂上へ下ろすと泥に呪文を唱えて
若者に振りかけました。すると見る見るうちにその姿は変化を始め、
若者は齢100歳の年老いた狒狒になってしまいました。
金切り声を上げて助けを求める狒狒を山頂に残して、
傷ついた心を抱え、イフリートは雲の上へと消えたのでございます。

魔神は人間の女はこりごりだ、二度と恋などすまいと一族の血に掛けて誓いました。
しかし、心の中にどこか寂しさが消えないまま過ごしている頃、
とある国の王女の描いた素人臭い魔法陣の中に呼び出されました。
その魔法陣は三ヶ所程間違いがあり、踏み出して術者の命を奪っても良かったのですが
どこかあの姫君に似て凛とした美しさを持つ王女を見て、揺れる心を隠すように、
努めてぶっきらぼうにイフリートは言いました。

『人間の女が一体何の用だ』
『私は魔術を極めたいの…私に魔法を教えて!』

これは恋ではないぞと我が身に言い聞かせながら、
月に一度の王女との逢瀬と引き換えに何年も掛けて
魔神は自分の知る魔法を悉く教えてやったのです。
もちろん、人間にそんな事を気前よく教えて良いはずは無く、
魔神は王女に何度か悪魔の仲間入りを持ちかけましたが、
それだけはどうしても王女が首を縦に振りません。
とうとうイフリートは王女を仲間にすることを諦め、
一族の邪魔をすることだけは絶対にしないという誓いを立てさせて
王女と別れました。

人間の女ばかりは、どんな魔法を使っても意のままにすることは難しい…
魔神がそんな悟りを開いてようやく牙の生えた同族の女に目を向け始めた頃、
突然、懐かしい匂いのする魔法陣に呼び出されました。

イフリートが辺りを見回すと、そこはあの王女の住む懐かしい王宮でしたが
そこに王女以外にもう一人、いや一匹…
そう、あの百歳を越えた狒狒が怯えた視線を魔神に向けていました。
イフリートの胸に長らく忘れていた感情…嫉妬と怒りが沸き上がりました。
王女が何のために自分を呼びだしたのかを悟ったのです。

『謀ったな!我が一族との誓いを破るとは良い度胸だ!』
『誓いだとか約束だとか、そんなものがあるものか!
 化け物の分際で笑わせないで!私の魔法はもうお前より優れているのです!』

それを聞くと魔神は見る見る巨大な獅子に姿を変えました。

『ようし…どういう結末になってもお前の身から出た錆だぞ!』

獅子が飛びかかるより一瞬早く、王女は自分の髪の毛を一本抜くと剣に変え、
空中で真っ二つにしてしまいました。けれど獅子の頭は宙に飛んで蠍に姿を変え…
王女は蛇に変じて襲いかかりました。蠍が禿鷹に姿を変えると蛇は大鷲に化け、
イフリートが大山猫に変わると狼となって戦いました。
実際、王女の魔法は進化しており、猫は狼に追いつめられてゆきました…
狼の牙に噛み砕かれる寸前、山猫が小さな羽虫に変身して
広間の噴水のそばに生えていた大きな柘榴の実に潜り込むと、
その実は空中に舞い上がり破裂して粉々に散らばりました…
狼は身体を揺すって雄鳥に変化し、
一粒も残すまいと柘榴の赤い実をついばみ始めました。
しかし、たった一粒、噴水の縁に転がった実が、
鬨の声を上げながら必死に探し回った鶏の嘴をかいくぐって池に飛び込むと
魚に姿を変えて底へもぐりました。王女もまたナマズに化けて池へ飛び込み
水底で激しい戦いが人知れず繰り広げられました。
最後にイフリートは一族の十八番である轟々たる炎に姿を変えて水面へと噴き上がり
王女に紅蓮の炎を吹き付けました。
互いがこれ以上変わる事の出来ぬ最後の変身をする局面でした。

『さあ王女よ!尻尾を巻いて逃げるが良い!』

炎の悪魔イブリスの一族であるイフリートが炎に変われば、
これを倒せるの魔術を王女は持っていないはずでした…
ただ一つ我が身を犠牲にする魔法以外には…
王女が青い火柱に変わったのを見て魔神は目を疑いました。
人間である王女がその魔法、イフリートよりも強い炎と化すなら
自らも焼け焦げてしまうからです。

二つの火柱が激しくぶつかり合い、炎と黒煙が王宮を満たします。
王様の目にも炎の中で娘の肌が焼けただれて行くのが見えました。

『アッラーに栄光あれ!偉大なるアラー以上のお力はない!
 われらアラーのたまものにしてアラーに還らんとするもの!
 この狒狒の呪いを解きたいという娘の望みを聞かねば良かった…
 こんな猿に出会わねば!娘がこれに掛けられた魔法を見抜かねばよかった!
 あんな怖ろしい魔神と娘を戦わせるなど…!
 こんな猿など魔神にくれてやれば良かった!娘が…!わしの命が!
 アラーよ!救い賜え!』

魔神の眼に国王の傍らで震えている狒狒の姿が眼に入りました。

『この優柔不断な色男め!狒狒爺の姿になっても未だ、
 一度成らず二度までも、わしの愛した女をたぶらかすというのか…』

イフリートの噴いた炎が逃げようとした狒狒の顔をかすめましました。
片目を押さえて転げる狒狒を見て、青い炎が勢いを増し、
イフリートを背後から襲いました。
魔神は薄れゆく意識の中で、
かつて愛した女が青い炎を噴いて燃える黒い炭の柱となりながら
にっこりと笑うのを眺めていました…」

女は溜息をついて黙り込んだ。

托鉢僧
「それから…どうなったのかね?」

「それから?」
托鉢僧
「狒狒と王女は?」

「王女は流石に亡くなられたのではないでしょうか?
 狒狒の事は判りません…呪いが解けたのやら解けぬのやら…
 これは魔神の語った物語ですもの。」
托鉢僧
「魔神の命は尽きなかったのかな。」

「ひとひらの灰が風に乗って、この島に流れ着き、古い森の精気を吸うて蘇った…と
 魔神が言うておったそうな…」
托鉢僧
「それ以来、女をも男をも、人を憎んで止まぬ悪霊と成り果てたのか…」

「哀しい物語よなぁ」
托鉢僧
「物語には…いずれ終わりを付けねばなりますまい。
 ところで…狒狒と王女のその後を知りとうはないか?」

「お前様が教えて下さるか…」
托鉢僧
「確かに王女は身を焼いたために亡くなられた…だが、最後の力を振り絞り、
 狒狒を人間に戻したのだ…狒狒は片目が焼けずに残っていたことを悔やんだ。
 両目が潰れて居れば王女の美しい顔が身体が、一山の灰となってしまうのを
 見ずに済んだのに…と。」

「どこまでも、情けのない男だこと…」
托鉢僧
「王様も炎に当たって火傷を負い、髭も髪も焼け焦げていたが、哀しみのあまり
 それを引き抜いて泣き叫んだ…王女の灰の上に丸天井の墓を建て、灯明を灯した。
 魔神の灰は風が吹き散らすに任せたという…」

「…」
托鉢僧
「王はかつて狒狒の姿だった男を怨んだが、殺しはせず王国を出て行くようにと言った。
 二度と顔を見せてくれるな。そんなことがあれば生かしてはおけないと…」

「その男は?」
托鉢僧
「片目に眼帯を掛け、頭を丸めて托鉢の坊主になった。
 あれも元はある国の王子として生まれ、書の師範としてインドの王宮に上がる途中で
 野盗に襲われ樵に身をやつした男、狒狒となった折には書の腕を生かして
 王宮に拾われたが、そこでも思わぬ禍を招いてしまった…
 ほとほと自分に愛想が尽きた男は世を捨てた。
 世の役には立たずとも、人に迷惑を掛けぬよう生きようと思ってな。」

「ならば何故此処へ来た?」
托鉢僧
「お前に逢うためさね」

「…喰われに来たというのか…」

女の影がすーっと膨らんで巨大な怖ろしい輪郭を描く。
が、托鉢僧は、恐れる様子も見せず、何かを女に振りかける。

女=魔神
「何だ…これは…」
托鉢僧
「私が爪の間に隠して持ち出した…」

女と影の輪郭がぼやけ、細かい粉末となって宙に舞い始める。

托鉢僧
「王女の灰だ…」

宙に舞う粉末が光を帯びて舞い踊る。
托鉢僧、見上げて手を合わせる。

托鉢僧
「迷わず成仏せられい…いや、仏で無くても良い。
 御身は元より神もアラーも生まれる前の古の神なれば
 御心を鎮められて、この森で安らかに暮らされよ…」

托鉢僧、そろそろと名残惜しげに森の出口へ。

托鉢僧
「八百万の神が万物に宿るという…この島は良い。この森はよい。
 悪霊さえも心やすらぐ楽園であってくだされ…いつまでも、いつまでも。」

托鉢僧、歌をくちずさみながら消えると、森には静かに朝の光が射す。