人魚の話 短縮版 ver.1.0 作・白神貴士


【登場人物】

婆さん
(以下は婆さんの話の登場人物)
じいちゃ
ばあさ
伊勢屋五兵衛(大旦那)
如月雅春
うみ
はは
如月昌虎

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お婆さんが一人いる

ば 「昔……もう、わし以外は誰も知らんくらい昔、
   冬の寒い朝、瓜が浜に流れついた赤ん坊を
   じいちゃが見つけた。
   すっかり冷えきって唇も紫色になっていたが、
   それはそれは可愛い女の子だ。
   ただな…その子には足が無かった。
   太もものあるところから先はイルカのように
   すーっと細くなってひれが付いとった。
   じいちゃは驚いたが、ばあさとの間に子も無かったし、
   『これは神様の御引きあわせだ。』そう、思った。」

 じいちゃが『ばあさ!』『ばあさ!』と呼びながら
 おくるみを抱いて登場。呼ばれてばあちゃも出てくる。

じじ 『ばあさ、ばあさ!』
ばば 『どうした?朝早くから大声あげて。』
じじ 『何かまうもんか!これだ、これだ!』
ひば 『あれ!どうした!こ、こりゃ一体…』
じじ 『浜で見つけた!わしらの子じゃ!』
ひば 『……返してこう。』
じじ 『はあ?』
ひば 『返すがええ。この子は魚の尻尾が生えとる。
    海神様の子に違えねえ、何が人の子になろう。』
じじ 『海神さんの子でもかまわねえ。海神さんの子が浜に流れつくには、
   きっと理由があろう。それにほれ、この子は冷えて死にかけとる。
   助けねば死んでしまうぞ!』
ひば 『あれ、本当に…!』
ば 「二人は風呂を沸かして女の子を暖め、
   藁布団に寝かせて、川の字に添い寝した。
   世話をするうち、ばあちゃも女の子が可愛く思え、
   尻尾も気にならなくなった。
   ばあちゃの家は海神様の祠のある岬の丘のふもとにあり、 
   村人に頼まれ蝋燭を商っていたのを娘は手伝うようになった。
   ある日、祭りに使う字入りの蝋燭を書いていたじいちゃの横で、
   女の子が何やら熱心に描いている。じいちゃが覗くと
   魚やら昆布やら、上手に海の底の景色が描いてあった。」

じじ 『こりゃあすげえ!』
ひば 『どうした?大声あげて…ありゃあ…こりゃあ見事な絵だ。
   誰が描いたんだ?』
じじ 『この子だ。』
ひば 『ほーっ…』
じじ 『どうだろう…これを店に並べたら…』
ひば 『そりゃあ喜んでくりょう。
   じいちゃ、こりゃあもっと色をいれたら奇麗になろう。』
じじ 『成るほど。町で絵の具を買ってくるだ。
   この子も喜ぶかな?』
ひば 『どうだ?うれしいか?』

ば 「女の子はちょっとだけ口もとをほころばせたように見えた。
   うつろな顔つきが多かった女の子の、
   心が動くところを初めて見たような気がした。
   
   絵を描いたろうそくは飛ぶように売れた。
   富山から来たという年配の漁師は、
   両の眼からポロポロと涙を流すと、
   三匹のタツノオトシゴが描かれた蝋燭を
   手ぬぐいにくるんで、抱きかかえるように船に乗った。  

   …じいちゃとばあちゃは女の子に『うみ』と名付けた。
   『うみ』はしゃべれなんだが、身振りと顔つきで大抵は足りた。
   難しい用事は筆で絵に描いて通じさせた。
   店番にも座るようになり、店はますます繁盛した。

   しかし……純朴なじいちゃとばあちゃも銭の唸り声を聞くうち、
   変わってしまった。
   じいちゃはイカサマ賭博と色仕掛けに引っ掛かって借金をこさえ、
   ばあちゃは怪しげな宗教に搾り取られ……
   蝋燭の値段を上げ、あんなに可愛がっとったうみを
   朝から晩までこき使う様になった……

   うみは夜になると、時々家を抜け出して、
   近所の小川から瓜ん子川へ下って海の入り江に出た。
   月光が波を揺らす夜。何千、何万の夜光虫が
   うみの泳ぐ後を天の川のようにキラキラ輝かせる夜。
   人で言うたら14、5に見えるうみは絵のように美しかったが、
   半時も入り江で過ごすと家に帰っていった。
     
   …その頃、伊勢屋の若旦那が店を覗き、
   うみを一目見た途端、泡を吹いて倒れ、
   何日も寝込むという騒ぎがあった。」
   

伊勢屋の大旦那登場。

旦那 『爺さん元気かい?』
じじ 『これは伊勢屋の大旦那、若旦那は元気になっただか?』
旦那 『今日来たのは、その話だ…
   お前さんとこのおうみ坊を……倅にくれまいか?』
じじ 『え!じゃあ、若旦那の病気は…』
旦那 『恋の病よ。だがな、倅には近江屋のお嬢さんという、
   れっきとした許婚者がいる…まあ、家を持ってもらって
   御世話をしようという事だ。』
じじ 『……つまり、御妾さん、日陰の囲い者って事だな?』
旦那 『これ、聞こえが悪い。』
じじ 『なあに、かまわねえ。そねえな事だと思うた。』
旦那 『では…』
じじ 『問題がある。』
旦那 『何だ?』
じじ 『うみは、人間じゃねえ。』
旦那 『…同じ断るなら、もう少し…ましな、』
じじ 『嘘じゃねえ。うみには足は無え…
    いるかみてえな尻尾が生えとる。
    ……穴はあるだが、あれが使えるかな?
    試してみるだか?』
旦那 『爺さん…酔ってるのか?』
じじ 『いんや正気だ。嘘じゃねえ。』
旦那 『……わしは去年、四条河原の見せ物小屋で人魚をみた…。』
じじ 『本当か!?』
旦那 『いや、真っ赤な偽物だ。
   猿と鯉の木乃伊を上手に縫いつけたものだった。
   ただそんな動かぬ眉つばものの木乃伊でも、
   押すな押すなの大繁盛だった。
   これがもし、美しい裸の人魚がギヤマンの池で泳いどったら…』
じじ 『……どうなるだ?』
旦那 『何万両の儲けだな。』
じじ 『な、何万両!!』

2人、ひそひそ話をしながら去る。

ば 「こうして、うみは売られる事になった。
   納得のいかぬ悲しそうな顔をしていたが…」

ひじ 『命を助けて育ててやったのは誰だ?
    好きな絵を、これまで何年も、
    思う存分描かせてもやった。
    一つくらい恩返しをしてもいいはずだ!』

ば 「この言われると、うみは、うつむいた。
   …夜が更けてじいちゃとばあちゃが眠ってしまうと、
   うみは家を抜け出した。
   入り江に着くと、いつもより長く、
   十六夜の月が染みて美しい黒髪がすっかり青くなるほど、
   波間に浮かんどった。
   …実はその時じーっとそれを見とった者がおった。
   岬から見える茶臼山のふもとにある小さなお城の若様だ。
   お城の殿様の名代で朝倉家に使いに行く為、
   港の本陣に泊まっていた今年で16になる若様は、
   月夜の浜で遠い波間に娘の影を見た。
   長い髪を月光に染め、若い胸乳を波になぶらせて、
   星を見上げ海に浮かぶ横顔が、瞬時に眼を焦がし、魂を吸った。
   若様は呆けたように見とったが、
   やがて…こみ上げる胸のせつなさに耐えかね、
   声をあげた。」

わか 『おーい!おーい!!』

ば 「うみは驚いて潜った。娘が消え、若様は後悔した。
   声を掛けなんだら、あのまま浮かんでいたろうに…
   それでも、潜った者はいずれ浮かぼうと、
   あちこち月夜の海を見まわしていたが、
   四半時たっても浮かんで来ん…しまった!溺れさせた…
   胸がどきどきして、涙が出た。声をあげて泣きそうになった…。
   その時岩場の近くに、娘が肩から上を出した。
   水の下から覗いとったら、若様があんまり、
   身も世も無い顔になったので、可哀想に思って顔を出した。
   若様が笑った。何ともいえん、可愛い笑顔だった。
   うみも笑った…二人はにこにこしながら長い事、見つめ合うた。
   やがて、本陣から『若様〜〜!』…探す声が聞こえた。
   若様は首から下げとった護り袋を外し、娘に放った。
   

わか 『それを、大事に持っていてくれ。私は茶臼山城の雅春だ。
   明朝船で立つ。帰ったらお前と祝言をあげたい。』

ば 「若様は自分が何をいってるのか判らなくなった。
   会うたばかりの知らぬ娘に…顔が赤くなった。頬が熱い。
   それでも言わずにいられなかった。」

わか 『きっとだぞ!』

ば 「若様は猪みたいに駆け出し、港の本陣へ消えた。
   うみは、護り袋を握り締め、
   朝には売られて行く、我が身の不運を嘆いた。
   若様を好きになっとった。
   うみは陸にあがってから初めて、声をあげて泣いた。
   空気の中では聞こえぬ声は想いを含んで波を震わせ、
   暗い海水に哀しい歌を唄わせた。」

うみ 『おおおぉ・・・ぁああぁ・・おーおーぉぉ・・』

ば 「その声を、暗い水底で聞いた者がおった。
   かつて光の世界にあこがれ、かなわぬ夢と知ってからは、
   我が娘を少しづつ空気に慣らした母親、
   ついには、一日中水に触れなくても平気になった娘を、
   波に託して陸に届けた人魚の女だった。
   …女は、泣き泣き川を上る娘の後ろ姿を見守りながら、
   こうつぶやいた。
   『死ねばいい。欲に狂うた人間ども……死んでしまうがいい!』

   
   翌朝、夜明けに二隻の船が入り江を出た。
   一隻は桶に入ったうみと、じいちゃ、ばあさを乗せた伊勢屋の船。  
   もう一隻は、若様とお供の侍を乗せた水軍船。
   鏡の様に静かな海を、何かに曳かれるように二隻は進んだ。
   ふと見ると朝焼けのせいか海は血のように真っ赤に染まっている。
   赤い海がひょいとひねられたようにゆっくり渦を巻いた。
   見る見る渦は大きく速くなり、轟々と音を立て
   白波が中天高くしぶきを上げる。目を上げればいつのまにやら
   四方から雲が湧き、渦の真上で回転を始めた…
   猛り狂った風が船を襲い、弾丸のような大粒の雨が、甲板で弾ける。
   水軍の水夫どもが血相を変え、帆を降ろそうと帆柱にとりつくや、  
   船は轆轤のように回転し、水夫どもを荒れ狂う海に放り出した!
   大渦巻の中心へと運ばれた二隻の船はあっという間に激突し、
   粉々に破壊され波間に消えた…。
   眼を見開いた水夫たち…抱き合った姿のじいちゃとばあちゃ…
   様々な物が光の差さない深い海の底へと消えた。
   ……人魚の母は、娘を探した。うみは若い男の死体を抱いて現れ、
   母は娘の本当の名を呼んだ……。」

はは 『ピリカ…“それ”を放しなさい。
    人間にお前を預けたのは間違いだった。』
うみ 『お母様、どうかこの人を助けて!
   この人と暮らしたい。人になり愛し合って陸で生きていきたい。
   それは、お母様の望みでも、あったはず……』
はは 『…できません。』
うみ 『お母様…!』
はは 『よく聞きなさい。第一に“人になる”とはどういう事か。
    海にすまう者と違い、陸の者には寿命があります。
    海の者は何かで死なぬ限り、永遠に育つが,
    陸の者になれば、老いて行きます。
    その若い肌がくすみ、あの老夫婦のように皺が寄ります。
    それでもいいのですか?』
うみ 『はい。かまいません。』
はは 『第二に、生きかえらせるには、その男を一番愛す者…
    お前の命を分けてやらねばなりません。
    その男の生きた年月だけ、お前は老いてしまう。
    それでも、いいのかい?』
うみ 『はい、この人といられるなら。』
はは 『…第三に、その男が別の誰かと結ばれたら…
    お前の身体は溶け崩れ、海の泡になります……』
うみ 『はい。きっと…かまいません。』
はは 『第四に、お前がもし別の誰かに抱かれれば、
    命は濁り…恐ろしい鯨神になりはてます。』
うみ 『そのようなことは決しておこりません。』
はは 『第五に、お前は陸ではしゃべれない。その事は変わらない。』
うみ 『そんなことが妨げになるとは思いません。』
はは 『お前は若い。何も知らず、恐れない。
    …決して後悔はしないのだね。』
うみ 『はい。』
はは 『愛は…酬いを求める物では無いが…
    お前をとりまく運命はあまりにむごい…
    母の胸を裂くような望みは止めて、想い直せぬか?
    海の底で、静かに暮らそうとは思えぬか?』
うみ 『この方に出会うまでは…海の底が恋しくて……
   来る日も来る日も、絵に描きました。
   私を陸に送った母様を怨む事さえありました。
   けれど今、私の心にあるのはこの方の事ばかり。
   この方を失えば、心を失います。』
はは 『これもまた、我が罪深き願いの果実……
    行けピリカ。望むままに…』

ば 「無数の泡が渦巻き、うみと若様を海面へと噴き上げた。
   下半身の燃えるような痛み、全身を這う異様なシビレ、
   うみは気を失った…
   (間)
   かもめの声、海草の匂い、波の音…目を開けると、
   昼下がりの太陽が照らす焼けた砂の上に…自分の身体が見えた。
   裸の上半身に続いて盛りあがる腰…すらりと伸びる二本の足!」
   以下はト書きとするかも……
   (うみは人の身体になっていた。握り締めた御守りをさする。
   『これさえあれば、きっと判ってくださる。』
   初めて使う足の筋肉は馴染まず、やっと立ちあがる。
   二、三歩の所に若様が倒れとった。そこまで歩くだけで、
   足首や膝、ふくらはぎが悲鳴をあげ、痛みは脳天まで響いた。
   うみは若様の上に覆い被さるように両手をついた。)

うみ 『あああぁ・・・あああぁ・・・』

ば 「言葉にならぬ声で、うみは呼びかけた。
   雅春の目がゆっくりと開く…うみの顔が有った。
   『お前は…』一瞬、なごみかけた目が見開かれ、
   雅春は飛びずさり、眼をそらした。」

まさ 『…お前は誰だ?』

ば 「若様の目に映ったのは夕べのうみでは無かった。
   熟れ落ちそうに揺れる胸乳、脂ののった豊かな尻、
   とろけそうな下腹に陰る茂み……うみそっくりだが、
   あの妖精の如き清らかな少女ではなく、
   全身から色香を漂わせる妖艶な裸の女…
   雅春は己が股間の変化を恥じた。
   女は、娘に渡した御守りを差し出し、
   何かを訴えている…
   『この女はゆうべの娘の母御に違いない。』若様は思い至った。」

まさ 『おまえの娘は?』

ば 「女は首を振った。」

まさ 『助からなんだか…』

ば 「雅春の頬を大粒の涙が伝い、大声で泣き始めた。
   うみも泣いた。若様は悲しくて。
   うみは自分のために泣いてくれる若様が愛しくて…
   二人は、日が傾きかけた頃、殿様の手の者に発見され、
   若様は、女を城に連れ帰った。

   ……うみは幸せだった。
   同じ部屋に眠らずとも、同じ館に寝起きし
   昼間は離れる事無く侍女として若様のお世話をした。
   時にはうみの膝の上で若様が昼寝をする。
   すーすーと寝息を立てる横顔を眺めるだけで、
   暖かい物が身体を満たしていった。
   昼下がり、遠く海が光る館の縁側で、
   若様はうみに膝枕をさせ、しかし、眼を開き何かを考えていた。
   不思議に思って、そっとその髪に触れた時、
   若様は遠くを見つめたまま、口を開いた。」



まさ 『うみ……わたしは幾度となく、
    お前をあの時の娘ではないかと思った。
    娘と同じ顔のお前を抱き締めたいと思った。
    だが、最愛の人を亡くしたからといって、
    その母親と契るなど獣の振る舞い…
    許される事ではない…そう、思って耐えてきた。
    今も私の心にあるのはお前の娘のことだけだ。』
うみ(の仕草。たとえば髪を撫でている。)
まさ 『あらゆる縁談を断り、お前の他はおなごを近寄せずに来た。
    …父に何と言われようとも。
    だが三日前、朝倉家から使者が来た…六女の菊姫様の事だ。』
うみ(の仕草。たとえば手が止まる。)
まさ 『おん年16…三国一の御器量との評判のわがまま娘だ。
    どんな縁談にも首を振らなんだが、この世で只一人、
    如月雅春になら嫁ぐと……言ったそうだ。』
うみ(の仕草。顔が曇る。横を向く。)
まさ 『朝倉は大国、断れば茶臼山など一揉みだ。
    私は父と母に諭され縁談を承知した。
    …お前の娘への思いは消えぬ。
    だが、戦国の世の習い、しかたない事だ……』
うみ(の仕草。涙を落とす。若様、涙に気付く。)
まさ 『…すまぬ!!』

ば 「雅春様…若様はうみを抱き締めた。
   初めてふたりは互いのぬくもり、心臓の鼓動を感じた。
   時よ止まれと思った……が、
   若様は静かにうみを離し、にっこり笑って出ていった。
   それっきり何日も姿を見せなかった若様が、
   菊姫との縁談を断った事を、炊事番の老女が告げた。
   朝倉の襲来に備え、岬に砦を築くために出かけていると…
   若様は、私のためにこの国を…身を裂かれるような気持ち。
   一体どうすれば?……
   夜明けまで悶々としていたその時、襖が開いた。
   現れたのは茶臼山城城主、如月昌虎、雅春の父親だった。
   酒臭い息を吐き、寝巻きをはだけた昌虎に、
   うみは後ずさった。」

とら 『その年増の色香でうぶな雅春をたぶらかしたか!?。
    お前は……大方、朝倉の間者だろう。
    この猫の額ほどの国が、それほどまで欲しいか!
    逆らう事も知らぬ、小さな国へ攻め込む口実に、
    雅春を利用したか!…化けの皮ひん剥いてくれる!』

ば 「戦場でならした豪勇を誇る昌虎の力は強く、
   たちまち着物を剥がれ組み敷かれた。
   必死の抵抗もむなしく、猛々しい物が身体を引き裂く激しい痛みに
   うみの意識が薄れた。『こやつ、未通女であったか』
   昌虎の声が遠く聞こえる…誰かが、駆け込んで来た気配。
   恐ろしい悲鳴がうつつの中で木霊した……

   暖かいものを感じた。うみの傷ついた心と身体を癒す暖かい物。
   春の木洩れ陽のように優しく、泉の水のように清らかな…
   しだいにはっきりと見えてきたのは若様の顔、
   暖かい涙をうみの胸に注ぐ若様の顔だった。
   裸のうみを宝物のように抱きしめる、
   父親の返り血に汚れた若様の姿だった。」

まさ 『許してくれ…気付かなんだ…私はお前を愛している。
    娘と変わらぬほどに愛してる。自分を騙してきたのだ。
    もう離さぬ。お前と離れたくない!』

ば 「せつなく甘い言葉が心を満たす…ああ、想いは報われた…
   が、次の瞬間、身体の奥で凶々しい歯車が回り始めた。
   『命は濁った…鯨神になりはてる…』
   うみは跳ね起きて駆け出した。
   若様の眼の前で恐ろしい姿になってしまう…
   恐怖がうみを走らせた。茂みを跳び越し坂を駆け上がり、
   一気に岬の断崖から虚空に身を躍らせた。
   白い裸身が青く暗い海に吸い込まれて行くのを
   若様は為す術なく、絶望的な思いで見送った。」

半鐘の音が鳴り響く。

まさ 『あれは?……くそっ!朝倉か、早すぎるわ!』

ば 「白みかけた水平線に黒々と影を現す朝倉の軍船十数隻。
   岬の砦は未だ大筒も揃わず、勝負に成らぬ。
   おびき寄せ、火矢の一本も浴びせようと待ち構えたが
   船から放たれた砲弾が砦に命中するや、
   戦に慣れぬ兵達はバラバラと逃げ出す始末。
   もはやこれまでと掲げた白旗も焼かれ、
   朝倉はこの国攻め滅ぼすつもりぞと覚悟を決め、
   波打ち際に向かって駆け出した若様の足が、はたと止まった!
   …目の前に信じられない光景があった。
   敵船団の真中に海がうずたかく盛り上がり、
   巨大な恐ろしい何かが姿を現す。
   それは帆柱よりも高い手足の生えた抹香鯨……」

兵の声『鯨神だ!鯨神が出たぞ〜!』

ば 「鯨神の右手が海を一かきすると津波が起こった。
   猛り狂う波は、船団の半分を断崖に叩きつけて壊した。
   左手が船を弾き飛ばすと、火薬に引火し残りの船を炎が包む、
   業火と黒煙の空に雄大な尻尾がひるがえると、総ては海中に消えた。
   渦巻く泡、おびただしい船の破片、呆然と暁の海に漂う水夫達…
   その真ん中に、鯨神はそそりたっていた。」

まさ 『カムイ……海のカムイが、この国を救った。』

ば 「鯨神は陸の軍勢に雅春を見つけると、
   身を屈め顔を近づけようとした。
   兵が慌てて火矢を射掛ける。
   数本は巨大な額に命中し、鯨神は悲しそうな声をあげた。」

まさ 『待て!やめろ!』

ば 「若様は鯨神の前に飛び出した。火矢が顔をかすめて飛ぶ。」

まさ 『やめろ!誰に助けてもらったんだ!!』

ば 「両手を広げた若様の叫びに、軍勢は我に返る。
   波の音だけが聞こえた……振り返り鯨神を見ると
   その頭を、砂浜につくほど垂れていた。
   若様は肉に食い込む矢、皮を貫く矢を一本づつ抜き去った。
   最後の一本を(背伸びしながら)抜き終え、手でさすった時、
   鯨神の眼から長い涙の筋が続いているのを見た…

   その悲しげな瞳に、このカムイは海に身を投げた女の
   生まれ変わりかも知れない……そう思った瞬間、
   鯨神は天に向かって頭をもたげ、声を上げた。
   長い長い悲しみの歌が岬にこだました。
   魂が吸われそうな声だった……
   人々が我を忘れ、愛するものを偲び、故郷を思い、
   連れ添いの手を握りしめている間に、
   巨大なカムイは海に還っていった……。
   (間)
   …若様は、父親殺しが国を継ぐ事はできんと弟に譲った。
   出家し、岬のふもとの小さな寺でうみと父親の菩提を弔い…
   老いて死んだ。
   その晩、海の向こうから、あの鯨神の歌が聞こえたという…
   それ以来、毎年若様の命日には岬の神社に赤い蝋燭が灯り、
   夜明け頃、あの悲しい歌が沖へ遠ざかって消えて行く…
   
   これはな。御伽噺じゃねえ…ほんとの話だ。
   思いを抱き続け死んだ男、死にもせず永遠に思い続ける女、
   どちらも業の深いことだ…。
   もう夜明けじゃ……長い話をしてしもうた。
   こりゃあ今まで誰にも話さなんだ。
   わしがどうして話したかわかるか?……
   (にっこりして)あんたは…若様にそっくりだ…」

   (完)