人魚の話

作・白神貴士


*一人芝居の台本として昔書き下ろした作品に少し手を加えた物です。
 朗読劇でも良いかと思います。お金のある方なら是非映画に…(笑)
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俳優が一人舞台にいる。立っていてもいいし、座っていてもいい。

男 「それは、昭和の初めの頃、まだ太平洋でも中国でも、
   未だ戦争が始まっていない頃でした。
   私は大学 の講師を勤める傍ら、休みになると日本海の方まで足を伸ばして、
   村里に残る民話や伝説を、土地土地の御年寄りに聞いて回り記録していたのです。
   ・・あれは能登半島の西側の小さな入り江の中にある寂れた漁村での事でした。」

大きめの手帳を取り出し鉛筆を舐めるしぐさ。客席を向いて。

男 「…で、おばあちゃん、それはいつごろの話だい?」

網をつくろうお婆さんに変わる。

婆 「わしのばあちゃに聞いた話だ…わしがまだ、こねえに小さい頃だ。」

つくろう手を止めて、手を座ったままの頭の高さに上げる。

婆 「そうさなあ、あれは秋の彼岸のことだったか、空が深い海のように青い日だった。
   わしのばあちゃが空を見てため息をついた。『はあっ…』てな。
   それは大きな大きなため息だった。『ばあちゃ、一体どうした?』
   わしは、そねえに聞いた。
   『昔のことだ…』、ばあちゃはそれっきり黙りこんで、
   今みてえに網の繕いを始めた。
   けど、わしがあんまりじーっと見とったもんで(ば)『どうした?』
   (子供になって)『昔、何があった?』(ば)『その事か。』(子)『うん』
   …そうしてばあちゃは、この話を聞かせてくれた…。」

ここからは、ばあちゃの話。照明など変えた方がいいかも。

ば 「もう、わし以外は誰も知らんくらい昔の話だ。
   冬の寒い朝、瓜が浜に小さな女の子が流れついた。
   見つけたのはおまえのひいひいじいちゃだ。
   すっかり冷えきって唇も紫色になっていたが、それはそれは可愛い女の子だ。
   ただな…その女の子には足が無かった。
   太股のあるところから先はまるでイルカか鮫のようにすーっと細くなって
   ひれが付いとった。
   じっちゃは驚いたが、ひいひいばあちゃとの間に子も無かったし、
   『これは神様の御引きあわせだ。』そう、思った。」

 抱き上げるしぐさ、家に急ぐ。
 ばあちゃ、話の進行とともに各キャラの語りが芝居掛かり、
 一人芝居状態に入ってゆく。

ひじ 『ばあさ、ばあさ!』
ひば 『どうした?こねえに朝早くから大声あげて。』
ひじ 『隣近所があるでもねえ、何かまうもんか!これだ、これだ!』

ひいひいばあちゃ、女の子に気が付く。

ひば 『あれ!どうした!こ、こりゃ一体…』
ひじ 『浜に流れ着いとった。わしが見つけた!わしらの子じゃ!』
ひば 『……返してこう。』
ひじ 『はあ?』
ひば 『返すがええ。この子は魚の尻尾が生えとる。
    海神様の子に違いない、何が人の子になろう。
    祟りを受けてもよくねえ。』
ひじ 『たとえ海神さんの子でもかまわねえ。海神さんの子が浜に流れつくには、
    それなりの理由があろう。それに、ほれこの子はこんなに冷えて死にかけとる。
    わしらが助けねば死んでしまうぞ!』
ひば 『あれ、本当に…!』

女の子を受け取ると家に抱いてはいるしぐさ。ばあちゃにもどって

ば 「二人は急いで風呂を沸かして女の子を暖め、
   乾いた藁を木綿でくるんだ暖かい布団に寝かせた。
   その日、その晩は川の字に添い寝して女の子を暖めた。翌日から粥を食べさせた。
   世話をしているとひいひいばあちゃも、女の子が可愛く思えてきた。
   魚の尻尾も気にならんようになった。
   若い頃の着物の丈を縮めて着せてみるとよう似合うた。
   ひいひいばちゃの家は海神様の祠のある岬の丘のふもとにあったので、
   村人に頼まれて蝋燭を商っていたが、娘はそれを手伝うようになった。
   ある日の事、祭りに使う字入りの蝋燭を書いていたひいひいじいちゃの横で、
   女の子が何やら熱心に蝋燭に描いている。
   にっこり笑ってじいちゃに差し出した蝋燭には上手に
   魚やらエビやら貝やら、海の底の景色が描いてあった。
   じいちゃは思わず大声を上げた。」

ひじ 『こりゃあすげえもんだ!』
ひば 『じいちゃ、どうした?大声あげて。』
ひじ 『どうだ?』
ひば 『ありゃあ…こりゃあ見事な絵だが、誰が描いたもんだ?』
ひじ 『こりゃあ、この子が描いた。』
ひば 『この子が?ほーっ…』
ひじ 『ばあさ、どうだろう…これを店に並べて置いたら…』
ひば 『ああー、喜んでくりょう。じいちゃ、こりゃあもっと色をいれたら奇麗になろう。』
ひじ 『成るほど。明日、町に出て絵の具を買ってくるだ。この子も喜ぶかな?』
ひば 『どうだ?うれしいか?』

ば 「女の子はちょっとだけ口もとをほころばせて笑ったように見えた。
   これまでうつろな人形のような顔つきをしている事の多かった女の子に、
   初めて心の動くところを見たような気がした。
   ひいひいじいちゃとひいひいばあちゃはますます嬉しくなって、
   翌朝日の出と共に町へ走ると
   店の人を叩き起こして絵の具を売ってもらった。
   ・・その日、女の子は家に有った蝋燭108本に海の絵を描いて店に並べた。
   絵はどれも見た者の心をつかんだ。実際、富山から来たという年配の漁師は、
   普段、絵など眺めた事も無いのに、両の眼からポロポロと涙を流すと、
   三匹のタツノオトシゴが描かれた蝋燭を大事そうに手ぬぐいにくるみ、
   抱きかかえるように船に乗った。
   …じいちゃとばあちゃは女の子に『うみ』と名を付けた。
   それが一番いいように思えた。
   『うみ』はしゃべる事は出来なんだが、身振りと顔つきで大抵の用事は足りた。
   難しい用事は筆で絵に描いて通じさせた。
   店番にも座るようになって、店はますます繁盛した。」

ひじ 『ばあちゃ…相談がある。ゆうべ、伊勢屋の番頭さんが来とったろう。』
ひば 『ああ、蝋燭が足りんでブツブツ言いながら帰っただな。』
ひじ 『安いけえ、売れすぎる。この蝋燭なら3倍の値段でも大丈夫だ…そう言うとった。
    なあ、高う売ってもええんじゃねえかな?』
ひば 『うちの蝋燭はもともと、祠の海神様に大漁や嵐除けの祈願する人の為に、
    便利で置いとるだけだ。金儲けじゃねえ!』
ひじ 『だがなあ…実際、伊勢屋さんはうちの蝋燭を京都や大阪にもって行って、
    高い値で売っとるそうな。倍でも買うと、そう言うとるだが。』
ひば 『こんな田舎で漁師の暮らしをしとって、何の金がいる?』
ひじ 『…そりゃ、無いよりあったほうが…』
ひば 『…じいちゃは、わしが何にも知らんと思おとろうが?わしは知っとるぞ。』
ひじ 『な!…何のことだか…』(慌てている)
ひば 『岬の向こうの寺で、毎晩、バクチ場が開かれとる。
   そこへ通うてさんざん絞りとられとる、馬鹿たれの爺さんが居るらしい。
   最初、ワザとに勝たせてもろうて、きれいなおなごに抱きつかれ、
   ひいひい言わされて結局、金も精も吸いとられたくせに…
   よほど嬉しかったんか、その味が忘れられんのか、
   八百長でカモにされとるのにも気がつかんと
   「…おかしいのお、おかしいのお。もう一ぺんだけ!」ゆうては
   負けるは、負けるは、すってんてんにされて蹴り出されて
   ヒイヒイ泣いとるくせに…
   毎晩、蝋燭の売上から、こっそりかすめてはこりもせんと出かけて行く。
   …その皺だらけの漁師顔で、なんぼう髪を染めても娘っこにもてるかぁ!
   この大馬鹿者が!』
ひじ 『すまん…ばあちゃ…知っとったか…』
ひば 『知らん訳がねえ!近所の餓鬼でもお前の背中を指さして
   「あれが噂のヒイヒイじじいじゃ!」ゆうて笑うとるのに…
   知らんのはじいちゃだけだ!ああ、恥ずかしい。
   年寄りが持ち慣れん金を持つもんではねえ…』
ひじ 『すまん、ばあちゃ、わしが間違うとった。このとおりだ…』
ひば 『…いくらだ。』
ひじ 『はあ?』
ひば 『借金がいくらだと聞いとるだ。』
ひじ 『…ばあちゃ…ありがてえ。』
ひば 『早う言え!』
ひじ 『利子だらなんだらで、わしはよう計算が納得できんだが・・』
ひば 『向こうさんがいくらと言うとるだ!』
ひじ 『30両…』
ひば 『しょうがねえ。明日から値段を5割増しにする。
   伊勢屋には特別よう出来た分だと言うて倍で売ろう。
   良さそうな分をとっておくだ。
   とりあえずはわしのヘソクリで10両返し、残りは1両づつでも地道に返すだ。』
ひじ 『ヘソクリ?ばあちゃこそ、何のために!』
ひば 『じいちゃと一緒にするな!
   わしは海神様の祠を立て直して、奇麗な祠をたてて、お礼をしようと思うて…
   (涙を拭う)やっと、ここまで・・・』
ひじ 『ばあちゃ…すまん!わしは大馬鹿、大馬鹿者だぁ!』
ひば 『ああ、そのとおりだ。』
ひじ 『わあああん、わんわん…』
ひば 『泣くな!うるせえから!』
ひじ 『あんあんああん……』

ば 「蝋燭の値段はあがったが、それでも飛ぶように売れていった。
  うみは朝から晩まで絵を描いた。
  肩や腕は張ってつらそうに見えたが、手は休めなんだ。
  夜になって絵が描けなくなると、時々、一人家を抜け出して、
  近所の小川まで上手に這っていった。小川から用水やら何やら…
  まあ、その頃は今と違うて薬も使うてなかったから、水は奇麗なもんだった…
  青い月の光を浴びながらうみはすーっと音もさせずに泳いで、
  入り江に注ぐ瓜ん子川の河口から海に出た。
  月のある時は月の光が波を揺らし、月の無い時は何千、何万の夜光虫が
  うみの泳ぐ後を天の川のようにきらきらと輝かせた。その姿の美しい事。
  うみは人で言うたら14,5に見えるくらいに育って、
  それは奇麗な娘になっとった。
  ほんの半時も水に遊ぶとうみはまた、川を逆上って家に帰っていった。
  なぜか、決して入り江から外へは出ようとせんかった。
  …その頃、伊勢屋の若旦那がうみの評判を聞き、こっそり店を覗きに来て
  姿を一目見た途端に泡を吹いて倒れ、
  家に帰ってから高熱を出して寝込むという騒ぎがあった。恋の病だった。」

伊勢屋の大旦那になる。

旦那 『爺さん元気かい?』
ひじ 『これはこれは伊勢屋の大旦那様、いつぞやは大金を都合して頂き、
    おかげで命拾いしました。
    わしは毎晩寝る前に、伊勢屋さんの方角を拝んでから寝とりますだ。』
旦那 『おいおい、わしは仏様でも神様でもないんだ。縁起でもない。
   そんな事はいいから、真面目に働いて借金を返しとくれ。
   また、悪い癖が出とるって噂を聞いたぞ。
   婆さんの耳に入ったら怒られるんじゃないのか。』
ひじ 『へへ、ばあちゃは、近ごろすっかり…「法の証人統一教」とかいう
   有り難い教えに夢中で、わしの事なんか眼に入ってねえだ。
   壷だの何だの買い込んで拝んでれば幸せになるらしいだ。
   もうあんなに大事にしとった海神様の祠もほったらかしになっとる。
   まあ、わしにゃあ都合がええだ。
   …それはそうと、若旦那様は元気になっただか?』
旦那 『今日来たのは、その話だ。実はお前さんとこのおうみ坊を倅にくれまいか?』
ひじ 『え!じゃあ、若旦那の病気は…もしかして』
旦那 『恋の病ってことらしい。だがな、倅には近江屋のお嬢さんという、
   れっきとした許婚者がいる。嫁にする訳にはいかん…
   まあ、家を持ってもらって御世話をしようという事だ。』
ひじ 『ははあ、つまり、うみを御妾さんに、日陰の囲い者にしてえって事だな?』
旦那 『これ、聞こえが悪い。』
ひじ 『なあに、わしはかまわねえだ。そねえな事だろうと思うとった。』
旦那 『では…』
ひじ 『問題がある。』
旦那 『何だ?』
ひじ 『うみはな、人間じゃねえだ。』
旦那 『…同じ断るなら、もう少し・・ましな、』
ひじ 『嘘じゃねえ。見せてやろうか?うみには足は無え…
    いるかみてえな尻尾が生えとるだ。
    まあ、穴はあるだが、あれが使えるかな?今度試してみるだか?』
旦那 『爺さん…酔ってるのか?』
ひじ 『酒は飲んだが、まだまだ正気だ。嘘はついてねえ。』
旦那 『…わしは去年、四条河原の見せ物小屋で人魚をみた…。』
ひじ 『本当か!?』
旦那 『いや、真っ赤な偽物だった。素人は騙されても、私は眼利きだ。
   あれは猿の子供と、鯉の胴体をどちらも木乃伊にしてから縫いつけたものだった。
   ただ、それでもな、…ただの動かぬ眉つばものの死体でも、
   客は詰めかけて押すな押すなの大繁盛だった。
   これが…』
ひじ 『これが?』
旦那 『生きた美しい裸の人魚をギヤマンの池にでも泳がせたら…』
ひじ 『泳がせたら…?どうなるだ?』
旦那 『何万両の儲けだな。』
ひじ 『な、何万両!!』
旦那 『…どうだ?』
ひじ 『なん…まん………ただなあ…わしが良くても…
    ばあさは、あいつを気にいっとるだ・・・』
旦那 『有り難い教えが「お前は騙されている。あの人魚は悪魔の使いだ!」…と、
   そう言ったら?』
ひじ 『…あ、あそこに…し、知り合いがおるのか?』
旦那 『神棚の壷は良い壷だ。大事にしたほうがいいぞ、保証する…
   何せ伊勢屋の卸した備前焼の壷だ。』
ひじ 『…はあ…!そうだったか…。じゃあ!?』
旦那 『心配せず後は私に任せなさい。
   爺さんは只、見ざる・言わざる・聞かざる…沈黙は銭だ。』
ひじ 『…うみは…』
旦那 『大事にして長生きしてもらうさ。金の成る木だからな。
   こんな所で蝋燭に絵を描いてるよりずっと幸せだ。
   バクチ狂いの爺さんと、宗教狂いの婆さんを養っていく為に一日中働くよりな。』

ば 「こうして、うみは売られる事になった。
   納得のいかない顔、悲しそうな顔をしていたが…」

ひじ 『お前の命を助けて育ててやったのはわしらだ。
    好きな絵を、これまで何年も、思う存分描かせてやったのもわしらだ。
    一つくらい恩返しをしてもいいはずだ!』

ば 「この言葉を聞くとすっかりあきらめたのか、また、蝋燭に絵を描き始めた。」

ひじ 『もうええ、時間が無えだ。明日の朝早くに、伊勢屋さんの船が出る。
    わしらもお前といっしょに花の都を見物に出る。明かりを消してさっさと寝るだ。
    もう絵は描くな!』

ば 「それでも、うみは残った蝋燭を只、真っ赤に塗りつぶすまで筆を放さなんだ。
   …夜が更けてじいちゃとばあちゃが眠ってしまうと、
   うみはいつものように家を抜け出した。
   見せ物小屋に入れられたら、二度と海で泳ぐ事など出来ないかも知れない…
   うみは入り江に着くと、いつもより長く、
   十六夜の月の光が染みて美しい黒髪がすっかり青くなるほど、
   波間にじっと浮かんでいた。
   …さて、実はその時じーっと眼をこらして、それを見とった者がおった。
   岬から見える茶臼山のふもとにある小さなお城の若様だ。
   今年で16になる若様は、お城の殿様の名代で朝倉家に使いに行く事に成り、
   やはり明日の朝の船で出立と、港町の本陣に泊まっていた。
   おつきの豪傑、福力秋之進の宿を揺るがす大いびきに閉口して、
   清々しい月夜の浜に出た若様は、遠い波間に娘の影を見た。
   月光に青く染まった長い髪を波になぶらせ、
   形の整ったまだ固い胸乳を寄せては返す波に洗われ、
   ただ星を見上げながら、夜の海に浮かんでいる娘の横顔が、
   瞬時に若様の魂を吸いとり、両の眼に焼きついて離れなくなった。
   何もかも忘れて若様は呆けたように長い間、黙って立っとったが、やがて…
   こみ上げてくる胸のうちの、苦しいようなせつないような思いに耐えかね、
   遂に声をあげた。」

わか 『おーい!おーい!!』

ば 「娘は驚いて素早く海に潜った。
   尻尾が少しだけ波間から覗いたが、遠くて若様には見えなんだ。
   娘の姿が消えて若様はえろう後悔した。
   声を掛けなんだら、娘はあのまま浮かんでいただろうに…
   砂金を川の流れに落としたような、とり返しのつかん気持ちがした。
   それでも、潜った者はいずれ浮かぼうと思おて、
   あちこち月夜の海を探しておったが、四半時たっても浮かんで来ん。
   こりゃあ悪い事をした、娘を溺れさせてしもうた…
   胸がどきどきして、涙が出た。声をあげて泣きそうになった…。
   その時岩場の近くに、娘が肩から上を出した。
   水の下から覗いとったら、若様があんまり、身も世も無い顔になったので、
   可哀想に思って顔を出した。
   若様の顔が笑った。何ともいえん、可愛い笑顔だった。
   うみも笑った…二人はにこにこしながら長い事、見つめ合うとった。
   やがて、本陣の方から福力秋之進の
   『若様?!若様?!』…そう呼ぶ声が聞こえてきた。
   大方、自分のいびきで眼を覚ましたに違いない。
   若様は大急ぎで首から下げとった護り袋を外し、娘に放った。
   娘が不思議そうに手にとった紫の護り袋は、城のかか様が持たしてくれたものだ。」

わか 『それを、大事に持っていてくれ。私は茶臼山城の雅春という。
   明日の朝、船で立つ、帰って来たらお前と祝言をあげたい。』

ば 「言いながら若様は自分が何をいってるのか判らなくなっていた。
   会うたばかりの、誰とも知らぬ娘と…顔が赤くなっていた。頬が熱い。
   それでも若様は言わずにいられなかった。」

わか 『きっとだぞ!』

ば 「娘がうなずいたかどうかは見る事が出来なかった。
   振り返るのが恐かった。若様は怒った時の猪くれえの勢いで駆け出し、
   秋之進の巨体も眼に入らぬかのように本陣に飛び込んだ。
   残されたうみは、護り袋を両手で握り締めて…
   明日の朝には売られて行く、我が身の不運を嘆いた。
   若様に負けず劣らず、うみも若様を好きになっていた。
   うみは陸にあがってから初めて、声をあげた。声をあげて泣いた。
   空気の中では聞こえない声は、娘の想いを含んで海に落ち、波を震わせ、
   暗い海水に歌を…哀切な唄わせた。」

うみ 『おおおぉ・・・ぁああぁ・・おーおーぉぉ・・』

ば 「その声を、暗く冷たい海の底で聞いた者がおった。
   かつて自ら光の世界にあこがれ、それがかなわぬ事を知ってからは、
   我が娘を少しづつ空気に慣らした母親が。
   ついには、一日中水に触れなくても平気になった娘を、
   波に託して陸に届けた人魚の女が。
   …その者は、泣き泣き川を逆上るうみの後ろ姿を見守りながら、こうつぶやいた。
   『死ねばいい。欲に狂うた陸の人間ども、みんな死んでしまうがいい!』…
   翌朝、夜明けの頃に二隻の船が入り江を出た。
   一隻は大きな桶に閉じ込められたうみと、着飾ったじいちゃとばあちゃを乗せた
   伊勢屋の荷物を満載した船。
   もう一隻は、若様=如月雅春様とお供の秋之進を乗せた水軍船。
   波も無く鏡の様に見える恐いほど静かな海を、二隻の船は何かに曳かれるように
   すいー…っと走り出した。」

わか 『秋之進…どう思う。』
あき 『は?…いや、この度のお役目、この福力秋之進がお供いたしますからには、
    何のご心配も無用。大船に乗ったつもりでどーんとお任せくだされ。』
わか 『違う…海の色だ。私はこれほど、血のように赤い海を見た事が無い…。』
あき 『海の色でござるか…ほう、確かに赤うございますな…
    したが、これは海が鏡のように凪いでおりますので、大方、
    朝焼けが映っておるのでございましょう。』
わか 『この海が、このように凪いだ事は?』
あき 『それは…初めてでございますが。まあ、たまには、このような事も…』
わか 『あれは!』
あき 『おおっ!渦巻でござる!』

ば 「静かな海がひょいとひねられたようにゆっくり渦を巻いた。
   見る見る渦は大きくなり速くなり、たちまち轟々と音を立て
   白い波が中天高くしぶきを上げる。目を上げればいつのまにやら
   四方から黒雲が押し寄せ、渦の真上で鏡に映したように回転を始めた…
   方向の定まらぬ猛り狂った風が船を襲い、
   鉛色の弾丸と化けて振り注ぐ大粒の雨が、甲板で弾け飛ぶ。
   たまらず、船室に逃げ込んだ二人とすれ違いに、水軍の荒くれ水夫どもが
   血相を変えて甲板に躍り出、帆を降ろそうと帆柱にとりついて行った瞬間、
   渦に捕まった船は轆轤のように回転を始め、水夫どもを荒れ狂う海に放り出した!
   覗きカラクリの板が一枚落ちた如く、魂が消えてしまいそうな大嵐となった海上で
   大渦巻の中心へと運ばれた二隻の船はあっという間に激突し、
   悲鳴を上げ粉々に破壊されて、すべては海の底へと沈んでいった…。
   無念のうちに死んでいった水夫たち…無数の白い壷…
   抱き合った姿のじいちゃとばあちゃ…
   様々な物が光の差さない深い海の底へと沈んで消えて行く。
   その中で人魚の母は、うみの姿を探していた。
   うみは・・・その腕に若い男の死体を抱いて現れた。
   母は『うみ』の本当の名を呼んだ・・・・・。」

はは 『ピリカ…“それ”を放しなさい。人間にお前を預けたのは間違いだった。
    もっと早くに海に帰すべきだったのだ。』
うみ 『お母様、お願いです。この人間を助けて下さい。この人と一緒に暮らしたい。
   この人を愛して…人として陸で生きていたいのです。
   それは、お母様が私に託した望みでも、あったはずです。』
はは 『…できません。』
うみ 『お母様…!』
はは 『よく聞きなさい。第一に“人になる”という事はどういう事か。
    水の中にすまう者と違い、陸の者には寿命があります。
    海の者は何かで死なぬ限り、永遠に育って行きます。
    陸の者になれば、老いて行くのです。
    お前のそのみずみずしい肌がくすみ、皺が寄りあの老夫婦のようになります。
    それでもいいのですか?』
うみ 『はい。かまいません。』
はは 『第二に、これは愛の魔法なので、その男を生きかえらせるには、
    その男を一番愛しているもの…
    すなわち、お前の命を分けてやらねばなりません。
    この男の生きてきた年月の長さだけ、お前は老いて行きます。
    それでも、いいのかい?』
うみ 『はい、この人といられるなら。』
はは 『そんな事は判らない。この男がお前を裏切るかも知れないよ。』
うみ 『…信じます。』
はは 『…第三に、この男がお前を裏切ったら、他の誰かと結ばれたら…
    お前の身体は溶け崩れ、海の泡になってしまうだろう。それでもよいか?』
うみ 『はい。きっと…かまいません。』
はは 『第四に、お前がもし他の誰かに抱かれるような事があれば、お前の命は濁り…
    恐ろしい鯨神になってしまうよ。それでもよいか?』
うみ 『はい。そのようなことは決しておこりません。』
はは 『第五に、お前は陸ではしゃべれない。その事は変わらない。それでもよいか?』
うみ 『はい。そんなことが愛の妨げになるとは思いません。』
はは 『お前は若い。何も知らない…何も恐れない。
    …どんな事になっても決して後悔はしないと云うのだね。』
うみ 『はい。』
はは 『愛は…その酬いを受ける事では無いと、いくら知ってはいても…
    あまりに、むごい運命がお前をとりまいているのが見える…
    お願いだから、この母の胸を裂いてしまうような馬鹿な望みは止めて、
    思い直してはくれないか?
    この海の底で、静かに暮らそうとは思えないかい?』
うみ 『この方に出会うまでは…海の底が恋しかった。
   来る日も来る日も、このふるさとを想って絵に描きました。
   私を陸に連れていった母様を怨む事さえありました。
   けれど、この方と出会って…私の心にあるのはこの方の事ばかり。
   今の私にとって、この方を失うという事は、心を全て失うということです。』
はは 『これも、また。私の罪深き願いの果実。
    …行け、わが娘よ。心の望むままに…』

ば 「無数の泡が激しく渦巻き、うみと、若様を海面へと噴き上げた。
   下半身の燃えるような痛み、全身を這いまわる得体の知れないシビレに、
   うみは気を失った…(間)
   かもめが鳴いていた。
   海草の匂いが鼻につく。波の音がする…。うみはそっと目を開けた。
   昼下がりの太陽が照らす焼けた砂の上に…自分の身体が見えた。
   裸の上半身に続いて盛りあがる腰…そしてすらりと伸びる二本の足!
   うみは確かに人の身体になっていた。手に握り締めているものが有った。
   若様からもらった御守りだった。さすってみる。
   『これさえあれば、きっと若様は判ってくださる。』そう、うみは信じていた。
   初めて使う足の筋肉はまだ馴染まず、赤ん坊のようにやっと立ちあがると、
   二、三歩の所に若様が倒れとった。若様の側まで歩くだけで、
   慣れない足首や膝、ふくらはぎは悲鳴をあげ、痛みは脳天まで響いたが、
   そんな事はどうでも良かった。うみは若様の上に覆い被さるように両手をついた。」

うみ 『あああぁ・・・あああぁ・・・』

ば 「空気の中では言葉にならぬ声で、
   うみは『雅春さま、雅春さま…』と呼びかけた。
   雅春の目がゆっくりと開く…目の前に顔が有った。
   『お前は…』一瞬、なごみかけた目がはっと見開かれ、
   雅春は後ろ向きに飛びずさり、顔を真っ赤にした。」

まさ 『…お前は誰だ?』

ば 「うみにはわからなんだ。だが、若様の目に映ったのはゆうべのうみでは無かった。
   豊満な胸乳は重く熟れ落ちそうに揺れ、脂ののった形のいい尻、
   とろけそうな下腹の線に続く情熱的な茂みの眺め…
   目の前にいるのはうみにそっくりだが、あの妖精の如き清らかな少女ではなく、
   全身から男を魅きつける色香を漂わせる妖艶な大人の…
   かつての雅春の乳母と同じくらいの年齢の裸の女だ。
   雅春は股間が熱く固くなっているのに気付き、自らを恥じた。
   女は、ゆうべ娘に渡した御守りを差し出し、必死に何かを訴えている…
   『この女はゆうべの娘の母御に違いない。』そう、若様は思い至った。」

まさ 『おまえの娘はどうした?』

ば 「女は首を振った。」(台詞なしでうみになって首を振ってもいい。)

まさ 『助からなんだか…』

ば 「雅春の頬を大粒の涙が伝う、後から、後から…。
   若様は大声で泣き始めた。うみも泣き始めた。二人は夕方まで泣いた。
   若様は悲しくて。うみは自分のために泣いてくれる若様が愛しくて…
   国境の浜に流れついていた二人は、日が傾きかけた頃、
   父の殿様の手の者に発見された。
   若様は、女を城に連れ帰る事にした。うみは幸せだった。
   侍女として若様の側にはべり、若様のお世話をすることが出来る。
   同じ部屋に眠る事はなくても、同じ館に寝起きし昼間は離れる事無く暮らした。
   時にはうみの膝の上で若様が昼寝をする。
   すーすーと寝息を立てる横顔を見つめているだけで、
   うみは暖かい物が身体を満たしてゆくのを感じとった。
   ある昼下がり、遠くに海が見える館の縁側で、
   若様はうみに膝枕をさせ、しかし、眼は見開いて何かをじっと考えていた。
   うみが不思議に思って、そっとその髪に触れた時、
   若様は遠くの海を見つめたまま、静かに話しだした。」

まさ 『うみ・・・わたしは幾度となく、お前をあの時の娘ではないかと思った。
    娘と同じ顔のお前をこの腕に抱き締めたいと思った。
    だが、最愛の人を亡くしたからといって、その母親と契るなど獣の振る舞い…
    許される事ではない…そう、思って耐えてきた。
    今も昔も私の心にあるのはお前の娘のことだけだ。』
うみ(の仕草。たとえば髪を撫でている。)
まさ 『だから、あらゆる縁談を断り、おなごを近寄せずに来た。
    お前の他は…父や母に何と言われようともな。
    けれど三日前、朝倉家から使者が来た…六女の菊姫さまのことだ。』
うみ(の仕草。たとえば手が止まる。)
まさ 『姫はおん年16…三国一の御器量と評判の美しい姫だそうな。
    わがまま娘でどんな縁談にも首を振らなんだが、この世の中で只一人、
    如月雅春となら夫婦に成っても良いと…そう言われたそうな。』
うみ(の仕草。顔が曇る。横を向く。)
まさ 『朝倉は大国、この縁談を承諾せねばこの茶臼山など一揉みに潰されてしまおう。
    私は父と母に諭され、菊姫との縁談を承知した。
    …けっして、お前の娘への思いが消えたわけではない。
    だが、戦国の世の習い、しかたのない事だ。許してくれ…』
うみ(の仕草。涙を落とす。若様、涙に気付く。)
まさ 『…すまぬ!!』

ば 「雅春様…若様は起き上がるなり、うみを抱き締めた。初めての事だった。
   初めてふたりは抱きしめあった…うみと若様は互いの肌のぬくもり、
   心臓の鼓動を着物ごしに初めて感じとった。どれくらいの時がたったのだろう。
   若様は静かにうみを離し、にっこり笑って出ていった。
   それっきり何日か、若様はうみの前に姿を見せなかった。
   やがて若様が朝倉家との縁談を断った事を
   うみの食事の世話をする老女が、ぼそっと教えてくれた。
   若様は朝倉軍の襲来に備え、岬に砦を築くために出かけていると…
   死んだ娘に義理だてするために、
   天下の朝倉家と勝ち目のない戦争をしようとしていると…
   …若様はわたしのためにこの国を…うみは身が裂かれるような気持ちがした。
   どうすればいいのだろう?一体、どうすれば…
   夜明け前まで悶々としていたその時、襖が開いた。
   現れたのは茶臼山城の城主、如月昌虎、雅春の父親だった。
   酒臭い息を吐き、寝巻きの前をだらしなくはだけた昌虎がずかずかと近寄り、
   うみはおもわず部屋の隅へ後ずさった。」

とら 『お前がたぶらかしたのか!?雅春がうぶで一本気なのを良い事に、
    その年増の色香でたぶらかしたのか…お前は大方、朝倉の間者だろう。
    この猫の額ほど国を、それほどまでして手に入れたいか!
    大筒の弾、軍馬のひづめで踏み潰したいのか?
    何をいわれてもへいへいと言う事を聞く、この従順な国に、
    堂々と攻め込む口実を作るために、可愛い雅春を利用しおったのか!!
    おのれ、許せぬ!化けの皮をひん剥いてくれる!』

ば 「若い頃、戦場でならした豪勇を誇る昌虎の力は強く、
   あっという間にうみの着物は剥ぎ取られ、浅黒い筋肉の下に組み敷かれた。
   声に成らぬ声をあげるうみの必死の抵抗もむなしく、
   うみは何か猛々しいものが、うみの身体の大切な所を引き裂いて行く、
   その激しい痛みに気を失った。
   『こやつ、未通女であったか』昌虎の声が遠くで聞こえたような気がした。
   誰かが、駆け込んで来た気配。懐かしい声と恐ろしい悲鳴…
   それらをうみは薄れて行く意識の中でかすかに聞いた気がした。
   …うみは何か暖かいものを感じていた。
   暖かい物がうみの傷ついた心と身体を癒しているような気がした。
   春の日の木洩れ陽のようにやさしく、いずみの水のように清らかな何かが…
   しだいにはっきりと見えてきたのは若様の顔だった…
   両の目から暖かい涙をうみの胸に注ぐ若様の顔だった。
   裸のうみを宝物のように抱きしめている、返り血に汚れた若様の姿だった。」

まさ 『許してくれ…私は今まで気付かなかった…わたしはお前を愛していたのだ。
    娘と変わらぬほどに愛していたのだ。自分の気持ちを騙してきたのだ。
    もう離しはしない。お前と離れはしない。離れたくないのだ。』

ば 「うみはせつなく甘い何かで心がいっぱいになるのを感じた。
   自分の思いが報われたと思った…が、次の瞬間、
   身体の奥で、何か凶々しい歯車が回り始める音を聞いた。
   『私の命は濁った…わたしは鯨神になりはてる…』
   うみは跳ね起きて駆け出した。
   若様の呼ぶ声を背に。足の痛みも感じなかった。
   若様の眼の前で恐ろしい姿になってしまう…
   その恐怖がうみを走らせた。茂みを跳び越し坂道を駆け上がり、
   一気に岬の断崖に近づいたうみは、
   その勢いを弱めることなく虚空に身を躍らせた。
   白く輝く裸身が青く暗い海に吸い込まれて行くのを
   若様は為す術もなく、絶望的な思いで見送った。」

半鐘の音が鳴り響く。

まさ 『どうした!?』
家臣 『水平線をご覧下さい!』
まさ 『あれは?・・・くそっ!朝倉か、早すぎるわ!』

ば 「ようやく白み始めた水平線に黒々と姿を現したのは、朝倉の軍船十数隻。
   岬の砦は未だ大筒も運び上げていない有り様で、到底勝負に成る訳はない。
   せめて朝倉の船をおびき寄せ、火矢の一本も浴びせてやろうと待ち構えたが
   船の大筒から放たれた砲弾が砦に命中するや、
   戦に慣れぬ兵達はバラバラと逃げ出す始末。
   もはやこれまでと掲げた白旗へも銃弾を浴びせられ、
   朝倉はあくまでこの国攻め滅ぼすつもりぞと
   若様は死の覚悟を決めた。
   ならば早いうちに撃たれて犠牲を減らそうと
   波打ち際に向かって駆け出した若様の足が、はたと止まった!
   …目の前に信じられない光景があった。
   敵船団の真中に水がうずたかく盛り上がって行く。
   巨大な何かがその恐ろしい姿を現した。
   それは帆柱よりも高い抹香鯨、手足の生えた鯨の形をしていた。」

声『鯨神だ!鯨神が出たぞ?!』

ば 「鯨神の右手が海を一かきすると津波が起こった。
   猛り狂う波は、船団の半分を岸壁に叩きつけて壊した。
   左手が船を弾き飛ばすと、火薬に火がつき残りの船団は炎に包まれた。
   轟々たる炎と黒煙の空で鯨神の雄大な尻尾がひるがえると、
   総ての軍勢は海中に消えた。
   渦を巻く泡と、おびただしい船の破片、呆然と暁の海に漂う水夫達…
   それら全てをはるか高くから見下ろして、鯨神はそそりたっていた。」

まさ 『海のカムイだ・・・海のカムイが、この国を救ってくだされた。』

ば 「鯨神は陸の軍勢の中に雅春を見つけると、身を屈めて顔を近づけようとした。
   人々は慌てふためき火矢を射掛けた。
   数本は巨大な額に命中し、鯨神は悲しそうな声をあげた。」

まさ 『待て!やめろ!』

ば 「若様は鯨神の前に飛び出した。火矢が若様をかすめて飛んだ。」

まさ 『やめろ!誰に助けてもらったんだ!!』

ば 「両手を広げて叫んだ若様を見て、軍勢は我に返った…
   波の音だけが聞こえる静寂の中、若様はゆっくりと振り返り鯨神を見た。
   鯨神はその巨大な頭を、ほとんど砂浜につくほど低く垂れている。
   若様は恐れる事無く近づいて行く。
   肉に食い込んだ矢、皮を浅く貫きぶら下がっている矢を一本づつ抜き去る。
   若様が最後の一本を背伸びしながら抜き終えて手でさすった時、
   鯨神の眼から長い涙の筋が続いているのを見た…その悲しげな瞳と見つめ合い、
   この海のカムイは身を投げた女の生まれ変わりかも知れないと、若様には、
   なぜだか、そう思えた。
   若様が話し掛けようとした瞬間、鯨神は天に向かって頭をもたげ、声を上げた。
   長い長い悲しみの歌が、岬にこだまして消えていった。
   それは魂が吸われるほど悲しい歌だった。
   人々がその声に我を忘れ、愛するものを偲び、故郷を思い、
   連れ添いの手を握りしめている間に、
   巨大な海のカムイは静かに海に還っていった…。」

ばあちゃ転じて婆、ふうとため息をつき、お茶を一杯すする。

男 「で、その若様はその後どうしたんだい?」
婆 「…まあ、そう急がんでも。ちいと疲れた。もう、夜が明けそうだ…大丈夫か?」
男 「かまいません。とても貴重な御話ですし。」
婆 「…そうか。…若様はな、父親殺しが国を継ぐ事はできんとゆうた。
   弟に国を譲って坊さんになってしもうた。岬のふもとに小さな寺を建て、
   女と父親の菩提を弔ってひっそり暮らし…一人で死んでいった。
   死んだ晩に海の向こうから、あの鯨神の悲しい歌が聞こえたという…
   それ以来、毎年若様の命日には岬の神社に赤い蝋燭が灯り、
   夜明け頃、あの悲しい歌が沖へ遠ざかって消えて行く…」
男 「そういう伝説があるんですね?」
婆 「伝説?ほんとの話だ。
   思いを抱き続けて死んだ男、死ぬ事もなく永遠に思い続ける女、
   どちらも業の深いことだ…。
   もう夜があけるな…長い話をしてしもうた。
   この話は今まで誰にも話さなんだ。
   あんた、わしがどうして話したかわかるか?」
男 「…?いいえ。」
婆 (にっこりして)「あんた…若様にそっくりだ…」

照明が変わる。

男 「それっきり、お婆さんの姿は闇に溶けてしまったかのように見えなくなりました。
   探して歩くうちに私はいつのまにか、
   岬の丘の上にある古びた祠の前に立っていました。
   祠の中で赤い蝋燭がもうすぐ燃え尽きようとしていました。
   遠く潮騒に混じって、紫色に明け始めた水平線の向こうから…
   人とも獣とも思われぬ悲しい歌声が聞こえてきたような気がして、私は…」

(完)


* 小川未明 H・C・アンデルセン 水木しげる 野田秀樹 萩尾望都 
  各氏の著作にインスパイアされて出来た作品です。