夢幻の薔薇

〜世阿弥抄〜


作 白神貴士



闇に潮騒の音が聞こえる。一筋の光。
老いたる世阿弥、登場。ごろりと横たわった・・と、思いきや半身を起こして

世阿弥「夜半に床についた。朝になったのであろう、すずめらの声に眼を開けども何も見えぬ。   

     開けども、開けども、力の限りに見開いたが・・・何も見えては来ぬ。ただ壁のような闇だ。  

     真っ黒な闇だ。・・・潮騒が聞こえる。その音だけは、変わらずわたしがこの島に

     室町の将軍様に流された佐渡島にいる事を教えてくれる。」


潮騒が遠ざかって行く。


世阿弥「おおっ・・・頼りの音さえ遠ざかる・・・私の魂はこの老いさらばえた肉を見捨て、

     何処へ消え果ててしまおうというのか・・・。」


橋掛かりを滑るように近づいてくる人影。“曲見”の面を付け尼僧のような頭巾の姿。


世阿弥「人影を見た。それは若き日の私、26歳の私が死の床にある“あの人”を見舞うた時の姿、 

     ならば、今日只今より私は私では無い。“あの人”を演じずばなるまい。」 


世阿弥、横たわり目を閉じ、即ち“あの人”となる。
“若き日の世阿弥”無言のままひとさし舞った後に枕元に座り、そっと面を外す。
“あの人”眼を閉じたまま声を掛ける。


あの人「鬼夜叉・・・いや世阿弥。死に行く者の枕辺で、一体何を舞いおった。」 

世阿弥
「これは正儀様、御目覚めでございましたか・・・貴方の後生を思うて舞いました。」 

正儀  「人が死んだ後、後生などいうものが有るものか。坊主のような事を・・・」 

世阿弥
「貴方の父上、楠木正成様と叔父の楠木正季様は湊川の合戦で

     足利尊氏に敗れて切腹された折に、“七度人に生まれて朝敵を滅ぼさん”と誓われたとか。

     また、兄者の正行様は四条畷で討ち死になさる前に、

     “返らじと かねて思へば 梓弓 / なき数にいる名をぞとどむる”

     との辞世の歌を残されたと聞きました。

     世に名高き忠義の家に生まれて、戦場に散る事も無く、こうして布団の上で死に行く時に

     正儀様は世の中に向こうて何と、言い残されましょうや?」

正儀
  「はて、難しき事を。人はただ、生まれて死ぬ。それだけの事を大層に言わずとも。

     叔父上や父上、兄上のことなど大方は作り話よ。

     それぞれ大事と思うた事に命を賭けた、それだけの事だ。」

世阿弥
「私にとって一番の大事はあなたを想うことで御座いました。」  

正儀  「・・・すまぬ。」 

世阿弥
「何を・・・・何を謝られます。正儀様が世の平和に命を賭けられたように、

     私は愛の為に人生を賭けた。それだけの事で御座います。」   

正儀  「鬼夜叉には悪い事をしたと・・・そう、思うている・・・」 

世阿弥
「何を・・・、何が悪いと言われる!・・・私を愛された事が悪いとでも言うのか?それとも。」 

正儀  「実はお前を愛してはおらなんだ。・・・と、わしが、そう云うたら・・・」 

世阿弥
「私の成した事は、心底惚れ抜いた人の為でもなければ・・・命がけで愛した人のためでもなくては

     ・・・到底、出来ぬことでした。・・・それでも、私にそれを望んだあなたは

     ・・・私を愛してはいないとおっしゃるのですね。

     では、あの夜の事、只一度の逢瀬は、私を、あなたの武器として、

     折れれば捨てる刀として、お試しになったと・・・!」  

正儀  
「何もかも・・・わしの人生は世のため、人のため。それが、楠木の一族の・・・運命よ。」   

世阿弥
「奇麗事はもう良い。あなたはすぐ世のため人のため戦をなくすためと口にされる。

     ・・・したが誠に戦が嫌なら、皆は山へでも海へでも逃げて、

     山人にでも海人にでもなってしまえばいいのじゃ。

     皆、きれいなべべを着たい、おいしい珍しいものが食べたい、そう思うから逃げもせずに都に住む。

     そういう欲が世の中を動かしているからこそ、戦がおきる。そうは思いませぬか?

     この世の者すべてがそうなら、あなたの望む平和な世など・・・所詮、絵空事ではありませんか!

     あなたは大嘘つきだ!義満様の方がよっぽど正直者だ!」   

正儀  
「おおさ。義満は正直者よ。足利将軍の子として何不自由なく生まれて、

     口にする事は全て本当になる身分で、誰が嘘などつくものか!

     なるほど・・・わしは大嘘つきよ。義満のような力があるわけではない。

     総大将として南朝方の軍勢を率いても戦を決めるのは公家や帝よ。

     言われた通り正直に命を捨てた兄や父を見て、どれほど口惜しい思いをしたことか。

     ならばわしは嘘をついてでもやり通さねば為らぬことと思うた。

     しかし、わしのついた嘘は本当よ。わし自身が信じたればこそ人をも動かす。

     信じて行えばそれは真でもあろうはず、ならばわしは大嘘つきではない、

     大本当つきじゃ!あの夜のことも・・・」 

世阿弥
「あの夜のことも?」 

正儀  「語るに及ばず!!」 


正儀、立ち上がりざまに布団を振り回す。時は逆しまに移りて今は“あの夜”
熱烈に世阿弥を抱きしめる正儀。二色の糸が絡み合うような二人の“愛の舞”がひとしきり舞われて。


世阿弥「『鬼夜叉、わしが好きか?』」

正儀
  「と、私は問うた。」  

世阿弥
「『はい。その小ささが無念で為らぬほど、この身も心も正儀様の物で御座います。』」  

正儀  「と、お前は答えた。」 

世阿弥
「『この黒き瞳の美しさ、この唇の赤さ、この無垢な肌の輝き、あなどれぬ智慧の深さ』」 

正儀  「私は続けた。」

世阿弥
「『この世の果て遥か唐天竺まで見渡せども、鬼夜叉、そなたにしか出来ぬ事があるのだ。』」

正儀  「と、私は・・・」 

世阿弥
「『一体、何の事で御座いますか?』」 

正儀  「と、」 

世阿弥
「『お前に頼みがある。』と、あなたはおっしゃった。」 

正儀  「『正儀様の御為ならばなんなりと・・・』」

世阿弥
「そう答え、私は笑った。」 

正儀  「『お前がわしを心底愛しゅう思うなら・・・』」 

世阿弥
「そう、あなたは私の目をじっと見詰めて、」 

正儀  「『そのいと愛らしき白い身体でわしを裏切って欲しいのだ。』」

世阿弥
「『・・・はて、この耳に空言の聞こえて来る・・・』」 

正儀  「『その細い手に別の男を抱き、そのいたいけな唇に男の印を咥え、そのなよやかな腰を』」

世阿弥
「『聞こえませぬ!聞きとう有りませぬ!』」 

正儀  「『まあ、聞け。』」 

世阿弥
「『いや!』」 

正儀  「と、抗うのを抱え込み、」 

世阿弥
「『・・・このわしを助けて欲しいのじゃ』」

正儀  「と、わしは泣いた・・・。」  

世阿弥
「『正儀様・・・』」 

正儀  「と、お前は驚いた顔で、わしの目の涙を拭った。」  

世阿弥
「『和平の道を探ったのを足利と通じていると疑われ、一昨昨年より、わしは北朝方に身を寄せ、

     わが子正勝らとも敵味方となりて争う始末・・・』」

正儀  「『わしが南朝方から裏切り者と呼ばれながら、何を考え、何をしているか判るか?』」  

世阿弥
「『何でございましょう?・・・・判るわけはございませぬ・・・・』」 

正儀  「『私の心は初めての、真の恋の行く末に思い悩んでいるばかり・・・』」 

世阿弥
「『只、命と思う殿方の口より出でた言の葉ならば・・・』」 

正儀  「『たとえ地獄の煮え湯でも・・・』」

世阿弥
「『喉を通して見せまする。』」   

正儀  「『ならば・・・あれを飲んでもらおう。』」  


と、指差した先に現れる人影。夜目にも艶やかな金色の光が輪郭を彩る。


義満  「我が名は義満、祖父尊氏が武蔵の国足利に住まいしによって足利の義満という。    

     三代に渡りて受け継ぐ室町の将軍職に飽き足らず、武家はもとより朝廷の太政百官に号令し、

     帝に代わりてこの日の本の国を治める。明国より日本国王の名を頂戴せるは、そも余の事。」

世阿弥「堂々のお名のり、流石は義満様!」   

義満  「このくらい押し出さんとな。京の都に群れ集う古狸や性悪狐に馬鹿にされるのよ。」    

世阿弥
「まさか、北朝の皇族や公家の中に義満様に逆しまな心を持つ者など・・・」    

義満  「ごまんといる。表面ニタニタしておっても心の中は悪企みでいっぱいさ。・・・そんな事より」


と、世阿弥を抱き寄せようとする。


世阿弥「義満様、正儀様が・・・」    

義満  「何だ、楠木、まだ居ったか。」  

正儀  「は。」

義満  「もう良いぞ。気をきかせろ。」

正儀  「は。失礼いたしまする。」  

世阿弥
「正儀様・・・!」


正儀、一瞬立ち止まるが振り返りもせずに去る。


義満  「気のきかぬ奴よ。まあ、そこがあいつの良い処かも知れぬ。

     狐や狸に疲れた余には好ましい男よ。」  

世阿弥
「誠に、良い御方で御座います。」   

義満  「お前が正儀を誉めるのを聞くと、余は何やら心が騒ぐ。」 

世阿弥
「そのような・・・」 

義満  「お前の頬が赤らみ、声が幾分高うなる。体温も僅かに上昇する。」

世阿弥
「まさか・・・!」 

義満  「何をうろたえておる!・・・戯れ言じゃ。」  

世阿弥
「御戯れを・・・」 

義満  「今熊野神社でお前が『翁』を舞うたのは12の時よな。」   

世阿弥
「・・・はい。」       

義満  「『翁』を舞うのは一座の長老と決まったもの、それくらい重い役のはず。

     それを子供が舞うておるとは、よもや考えもせなんだ。観阿弥め仕掛け居ったわい。

     舞いおわり面を外したお前の顔が眼の端に飛び込んだ時には心の臓を掴まれた心持ちよ!

     それ以来、余の心はお前の手の中じゃ。」 

世阿弥
「滅相もございませぬ!」   


世阿弥、平伏する。義満その尻を撫で



義満
  「いや、この中かも知れんな。」  

世阿弥
「もう!義満様ぁ!」  

義満  「それそれ、その声が聞きとうてな。」   

世阿弥
「知りませぬ!」  

義満  「やはり、尻か!」   

世阿弥
「一日戯れ言を続けておられては、御政務も進みますまい。」  

義満  「憎まれ口もそなたの口なら愛おしい。」 


と、世阿弥の口を吸う。離して。


義満  「この口の頼みゆえ、余は今度、天皇になろうと思う。」

世阿弥
「何をおおせられます!滅相もない。そのような事お頼みしたつもりは御座いません!」 

義満  「言うた。」   

世阿弥
「一向に!」  

義満  「『義満様、もっともっと強い御方にお成り下さい。

     この日の本の事全て、義満様のお心一つでお決めになられますように。

     そして日の本に平和な日々をお作り下さいませ。』」 

世阿弥
「・・あ。」  

義満  「寝物語にそう聞いた日から、余はきっとそうしてやろうと心に決めて来た。」

世阿弥「しかし・・・帝とは天照大神から連綿と連なる尊いお血筋・・・」

義満  「帝か・・・世阿、心して聞け。あれはすなわち、嘘じゃ。」 

世阿弥
「は・・・・・・?戯れ言はおやめください!そのような事を大きな声で!誰の耳があろうやら・・・」

義満  「かまわぬかまわぬ。主上だ何だとこれだけの都を作って後生大事に守ってきたのは

     絵空事、仮寝の夢だ。同じ夢なら面白いほうがよかろう。

     なあ、世阿、これからは面白い世になるぞ!・・

     わしがこの室町から絵筆を振るって世の中を描いて行く。世阿、楽しいだろう?」  

世阿弥
「将軍様は恐ろしいお方でございます・・・。」  

義満  「お前は意外と肝が小さいな。

     いいか、若者はすべての常識を疑うところから始めなくてはいかん。

     今までに地面の上に立っているものは根こそぎにしろ。

     一から自分の手で創りなおす、それが若者の特権というものだ。」  

世阿弥
(独白)「いたのよなあ。この時代にも華の申し子が・・・」 
 
義満  「フラワー・チルドレンか・・・良い言葉じ。

     世阿、お前もお前の『華』、お前の美学を地上に打ち建てるのよ。   

     お前の申楽能で四海を塗り替えるのよ。わしが力を貸してやろう。」   

世阿弥
「ありがとうございます。浅学非才のこの身には重き仕事にございますが、

     義満様の御薫陶にすがり、きっとやりとげて見せまする。」  

義満
  「浅学非才とはよう言うた。二条良基を始め、当代一流の文化を学ばせ、

     その才も天下に並ぶものなき物と、誰よりお前が知っているはず

     ・・・まあよい。世阿、舞うてみい。」     

世阿弥
「かしこまりました。」 


創作能「菊花の精」=ロシア・バレエのニジンスキーで有名な「薔薇の精」を翻案したものを舞う
世阿弥。いつの間にか義満が世阿弥の父・観阿弥にすり変わっている。 


世阿弥「お父様、おひさしぶりでございました。早速ですが、よろしければ私の申楽能、お父様の目に、

     いえ当代一の申楽上手、観阿弥清次の眼に、どう映ったかお聞かせいただけますか?」    

観阿弥
「・・・美しい、これほど美しい能をいまだかつて観たことは無い。大したものだ・・・只・・・」  

世阿弥「只?」

観阿弥「お前は・・・世の中をよう知らぬ・・・人々の暮らし、心のありよう。

     若きうちより室町殿の殿上にあがり、その雅な世界の中で美しきものをだけ、見てまいった。

     いや、詮無いことじゃ・・・・・・。」   

世阿弥
「・・・お言葉ですが、殿上とて雅なだけではありませぬ。

     私が神ならぬ身の運命でたどった道々に感じ取った事、この身に受け止めたこと、

     愛も哀しみも喜びも憎しみも、すべてを込めて創った能を・・・足りぬといわれれば私は、

     私は・・・・・一体どうすればよいのですか!

     私には、この世界しか無かった!この世界しか与えられなかったのです!」  

観阿弥
「・・・・悪い事を云うた。只、惜しかったのじゃ。悔しかったのじゃ。お前のせいではない。 

     もとより承知の上じゃ。お前にはどうしようも無いことを云うたのはわしの過ちじゃ。

     許してくれ、知らぬ顔をして誉めておれば良かった、にこにことお前の顔を眺めておれば良かった。

     しかし、そんな事も・・・・出来る事ではないのだ。」 

世阿弥
「・・・私が世の中を描き尽くせぬというのなら、世の中を変えてしまえば良い・・・」     

観阿弥「鬼夜叉!」                                              

世阿弥「ここにいるのは最早、鬼夜叉ではありませぬ。

     二条良基様に愛され“藤若”となり、

     将軍義満様に愛され“世阿弥”となった者です。

     只一人、世を変える事の出来る申楽者です!」  


世阿弥、怒りを込めて鬼面をつけ短い舞を舞う。舞い終えると義満の姿があり、観阿弥はいない。


世阿弥「?」  

義満
  「何を驚いたような顔をしておる。」 

世阿弥
「今、ここに、父が居りましたが・・・はて?」

義満  「観阿弥が居ったと?」    

世阿弥
「はい。」   

義満  「そなたの父なら、14年も前に駿河で死んだではないか。何を迷うておる。」 


世阿弥の髪に白い物が見える。 


義満  「めでたい席じゃ、心確かに努めよ。わが子義嗣が帝、天皇になろうという前祝いよ。」    

世阿弥
「義嗣様が・・・」 

義満  「そうよ。あれは世阿の若い頃によう似ておる。

     京雀も余が世阿に生ませた子と、冗談を言うくらい美しい子だ。

     あれを天皇につけて、余が上皇となり院政で世の中を思うがままにする。

     着飾ったあれを見ているとわが子ながら心蕩ける想いよ。

     まさに天皇たるにふさわしい美しさじゃ。

     この日の本もついに『美』が支配する世の中となる。

     これこそ余と世阿で作り上げて来た物、待ち望んだ物じゃ。」   

世阿弥
「日の本の帝は・・・義満様、お考えなおしは下さいませぬか?」  

義満  「心配するな、公家皇族らがいかに憎んでおっても

     日本国王に面と向かって文句のひとつ言う勇気も無いわ。

     いかに歯噛みの音が京の都に鳴り響こうが、奴らの牙が余に届く事は無い。」  

世阿弥
「ならば、お願いが御座います。」   

義満  「何なりと申せ。」 

世阿弥
「この世阿を安心させようとて、口を吸うては下さいませぬか。」 

義満  「口を吸うてくれと申したか?」

世阿弥
「はい。申しました」 

義満
  「言われてみれば、この何年、寝屋に召すどころか、そなたの口を吸うた事も無かった。

     公家や武家の女房、娘を狩り歩くのにうつつを抜かしておった。

     世阿が、まだ余に、そのような気持ちを持って居たなどと考えた事も無かった。

     ・・・許せ、すまなんだ。」                                

世阿弥
「義満様・・・!」                                                   

義満  「しかと口を吸うてやろう・・・。」                                        


義満、世阿弥の口を吸う。不思議な顔になってゆっくり離れる。


義満  「世阿・・・わしに何を飲ませた。」                                      

世阿弥「正儀様の忘れ形見に託された毒で御座います。」                            

義満  「・・・毒と・・・」                                                   

世阿弥
「はい。何としても、義満様が皇位を簒奪されるのを防ぐようにと、あの方の御遺言で御座いました。」

義満  「やはり、お前は楠木の事・・・を・・・」                                    


義満、床に崩れて動かなくなる。


世阿弥「いいえ、義満様。あなた様を思う気持ちに変りは御座いませぬ。」                   


世阿弥、立ち上がり舞う。いつしか床に伏せるは老いたる世阿弥自身の姿となる。
老いたる世阿弥、酔っぱらっている様子。虚空に向かって話しかける。


世阿弥「はい、義教様・・・。判っております。あ・な・た様は足利の六代将軍義教様でございます。
 
     その面前に居ります私は、本来、こちら仙洞御所に出入り禁止の身。

     義満様の御寵愛に溺れ、おのが身分も忘れ果て、殿上人のつもりであった

     哀れな河原乞食・・・観世の太夫、世阿弥元清でございます。

     ・・・何でございます?齢70を越えていささか耳が弱りましてございます。

     申し訳ございませぬが、今少し大きなお声でお話しくだされ・・・はあはあ・・・

     観世の太夫は先ごろ私の甥、音阿弥元重に決められた・・・お前はもはや、

     ただの老いぼれた申楽乞食に過ぎぬと・・・そのとおり!そのとおりでございます!

     ただの老いぼれ、死に損ないでございます。

     したが、この死に損ない恐ろしい罪を犯した死に損ないでございます!

     飲めぬ酒を飲み、酩酊の有り様でまかり越しましたのも、おのが小心さゆえ、

     おのが罪の恐ろしさに我が身を滅そうと欲せども、首を突く事も、海に入る事も、

     松の木にぶらさがる事も果たせませんでした。

     父が死に、愛しい方も死に、芸を継ぐ子も身罷り、我が身は独りでございます。

     見るべきは見、書くべきは書いた今、一刻も早く世を違えたいと思えど・・・

     舞台に登れば神にも鬼神にも変ずるこの世阿も、我に返れば小心者。

     この大罪を打ち明けて、この首落としていただけぬものかと、

     只ただ、そればかりを念じて・・・は?・・能書きは良いから罪とやらを早くと・・・

     それを口にすれば首を落とされるは必定、覚悟がいりまするでな・・・。
  
     あ!お待ち下さい!お気の短い・・・御帰りになるのは早うございます!

     わかりもうした。申します、今、申します。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・(息を吸う)

     義満様を

     殺したのは私だ!」


世阿弥、眼を閉じる。首を伸ばしじっとしている。沈黙の間。
ひょっとして、もう斬られたのかと首をさすり、ようやく眼を開けた。
空間を圧するような笑い声が満ちる。世阿弥慌てる。


世阿弥「嘘ではない、真でございます!この首落とせぬと仰せられるなら、

     明日から都大路を呼ぼうて歩きまする!

     殺したぞぉ!足利義満は、この世阿弥が殺したぞぉ!・・・」


世阿弥の絶叫。明かりが落ちる。世阿弥がっくりと膝をつく。
潮騒がゆっくりと戻って来る。


世阿弥「人は死ぬる前におのが一生の姿を観るという・・・わしはやはり正儀殿では無く世阿弥元清であった。

     ならば、誰が迎えに来たというのだ。」  


若き世阿弥、面を取る。


世阿弥「判りませぬか?お父様」    

世阿弥
「お前は?」 

元雅  「十郎元雅でございます。過ぐる年、伊勢にて斯波兵衛三郎の手に掛かり、

     住む世を違えて早幾年、ようやく、お迎えに参じる事が出来ました。」

世阿弥
「元雅・・・おまえこそが、この世阿弥を越え、父観阿弥に迫る名人上手であった!

     おまえが生きておったなら、わしとて心穏やかに黄泉の旅路に出立出来ると言うものを・・・・」 

元雅
  「言うても詮無い事。父上の書かれた伝書も御座る。教えを継いだ金春禅竹も居りまする。

     また、後の世にも名人上手は居出まする。

     まだ、楠木の一族はは南朝の灯を守り戦っておりまする。

     が、やがて戦も終わりましょう。

     あの世の者と成りし身は思い悩むも無駄な事。心安らかに立ちましょう。」 

世阿弥
「元雅あ!」 

元雅  「七二年の齢を重ねたお体で佐渡に流されての島の暮らし、おいたわしゅう御座いました。

     さあさ、あの世で皆様方が首を並べてお待ちでございます。」

世阿弥
「それならお前を良い人と思い、

     二人で黄泉の道行きと」 

元雅
  「彼岸花咲く黄泉の道」

世阿弥「手に手を取って」  

元雅  「案内しょう。」  


道行き。静かに橋懸かりから退場してゆく。